今週(1/13号)の週刊文春、週刊新潮。 週刊文春は、新年ワイドの一部に秋篠宮家の記事を載せている。 「秋篠宮 小室さん不合格で想定外 待ち受ける 2022年 三つの壁」 一つめは小室さんの司法試験合格の厳しさ、 二つめは佳子さまのご結婚がどうなるか、 三つめは悠仁さまの進学先について。 以上、ほとんどこれまでの記事の焼き直しで 構成されている。 週刊新潮は、年末からスタートした短期連載 なぜ「皇室崩壊の危機は訪れたか」の第二回。 第一回に関するブログはこちら。 「週刊新潮の皇室分析、あまりに厚顔無恥」 https://www.gosen-dojo.com/blog/33320/ 「秋篠宮」皇室伝統への”反発”と題する今回の記事は、 眞子さんの結婚にまつわる「公と私」、そして 秋篠宮さまの過去の発言をもとに「兄上を軽んじている」 (だから子供たちにもその影響が出ている)とする内容。 新潮は次のように記している。 今回の騒動でクローズアップされたことの一つに、 皇族のお振る舞いにおける「公」と「私」がある。 多くの国民の理解を得ないまま結婚に踏み切り、 戦後初めて婚姻の儀式を経ずに皇籍を離脱することに なった眞子さんは、あわせて一時金も辞退。 まさしく皇室の歴史を塗り替えてしまったわけである。 加えて、小室家の抱える金銭トラブルにおいては、 皇族でありながら民間人同士の争いに介入、 挙句一方に肩入れして仔細な指示を出していたのである。 修正をガンガン入れたくなる文章だ。 (入れてみる) ①多くの国民の理解を得ないまま →「多く」とはどのくらいを指すのか。 グラビアでは、毎日新聞と読売新聞のアンケートを紹介し、 数字こそ異なれど賛成・反対が半々。 これを「多くの国民を理解を得ないまま」とするのは曖昧で、 ミスリードにつながる。 ②同じく、「理解を得ないまま」とすると、 眞子さまが国民を無視したかのような印象を与える。 発言できる機会が極端に少なく、また制約がある中で 彼女は懸命に国民の理解を得ようとしたではないか。 それに心を砕いたことを、一切なかったことのように表現するのは 果たして正しいか。 ③婚姻の儀式を経ずに~一時金も辞退 →まるで眞子さんの意思でそうしたかのような印象を与える。 そうではなく、メディアや自称保守、そしてヤフコメに書き込む大衆が そのように「させた」のだろう。完全にはき違えている。 ④皇室の歴史を塗り替えてしまった →これも眞子さんの意思(あるいは言動の結果)であるか のように書くのはミスリード。彼女だって本意ではなかったはずだ。 そうさせたのは誰か? メディアと大衆が増長しまくって 叩きまくったからではないか。 ⑤民間人同士の争いに介入~~仔細な指示を出していた →全く正しくない。そもそも争いにすらならない、 小室母の元婚約者が「金返せ」と騒いだだけ。 その対処について眞子さんは希望を伝えていたに過ぎない(それも真っ当な)。 「介入」などという表現は、あまりに大仰。 悪意あるミスリードの連発。 しかも、これを前提として「公と私」を専門家に 語らせているから、さらにタチが悪い。 「自由恋愛そのものより、コロナ禍で強引に結婚を 進めようとしたことが国民の理解を得られなかった原因」 (小田部雄次) 「他国の王室に比べ、公務が少ない。公の感覚が 培われなかったのは公務が少なかったから」 (君塚直隆) ちがう、ちがーーーーーーーう! すべては、メディアと大衆がバッシングを続けたからではないか。 なぜ眞子さんのこれまでの努力を見ないのか。 なぜバッシングにさらされた心中を想像しようとしないのか。 少しも寄り添うことなく、「いじめは、いじめられたほうに 原因があります」と言わんばかりに、その原因を分析してみせる ヒョーロンなんか、何の役にも立たない。 「公」とは、ほんの少しの「私」も許されないものなのか? 自由意思という、ほんの少しの「私」が入ったら、 「公」のためにやってきたことは全て否定されるものなのか? 「公」と「私」は、全く相いれない対立概念なのか? 他人が「無私であるべき」と強制できるのか? 何の権利があって?? コメントする専門家も新潮自身も、 自らの言葉が皇室を苦しめていることに いい加減、気づけ。 彼らこそ、皇室を崩壊の危機に陥れている戦犯である。
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