天皇陛下は、殆どあらゆる自由と権利を制限されながら、
ひたすら国民に寄り添おうと、日々努めて下さっている。
その事実だけで、十分に最高の敬意を受けられるに相応しい。その上、憲法は「天皇」というお立場を「日本国の象徴」であり、
「日本国民統合の象徴」であると規定している(第1条)。
しかも、その根拠は「主権の存する国民の総意に基づく」という、
憲法上、最も“強固な”基盤が指定されている
(この総意は、同条文が改正されない限り、不動と見なされる)。憲法の規定は、言うまでもなく“リンゴは赤い”という類いの
「事実の記述」(事実命題)ではない。
“朝は早く起きるべし”といった「規範の提示」(当為命題)だ
(これを、憲法の規定としては例外的に「事実命題」とする、
長谷部恭男氏や木村草太氏らの異説に対しては、
9月末に刊行予定の新著でやや詳しく批判した)。つまり、「日本国の象徴である“べし”」
「日本国民統合の象徴である“べし”」ということ。この憲法の規範的な要請に応えるべく、
天皇陛下は常に全身全霊で努力しておられる
(もし事実命題なら、憲法上、そのようなご努力の必要は無くなる)。
およそ国民に対してなら考え難い、天皇・皇室への人権・自由の
窮屈な制約も、この規範的な要請(及び「世襲」規定=第2条)に基づく
(事実命題なら、このような制約の根拠も説明できなくなる)。しかし当然ながら、この規範的要請は、天皇・皇室“だけ”
に向けられるものではない。
国会・政府・裁判所など、国の機関も天皇というお立場に対して、
「日本国の象徴」「日本国民統合の象徴」であられるに“相応しく”
対応すべきことが、求められる。例えば、国会の開会式で衆参両院議長より更に“高い”位置に、
天皇のお席が設けられる。
それも、こうした憲法の要請に照らして、当たり前のことだ
(そもそも天皇は、憲法に定める国事行為として、
国会を「召集〔上の立場の者が下の立場の者を呼び集めること〕」される)。更に、戦後憲法学の源流に当たる、「天皇機関説」で有名な
美濃部達吉博士は、以下のように述べておられた。「憲法の正文を以て定められて居るのであるから、
必然に法律的観念たるもので、即ち国民は法律上に
天皇の御一身に対し国家及び国民統合の現れとして
尊崇すべき義務を負ふのである。国家の尊厳が天皇の御一身に依り表現せられ、
国民は何人も其(そ)の尊厳を冒涜すべからざる義務を負ふのである」
(『日本国憲法原論』昭和27年)と。但し、国民一般については、原則として第1章より、
第3章の適用が優先されるべきだろう。以上のようであれば、先日の令和の東京五輪・開会式においても、
天皇陛下に名誉総裁としてご臨席戴く際には、勿論それに相応しく
対応すべきことが、菅首相をはじめ関係者には求められたはずだ。【高森明勅公式サイト】
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