コロナ禍で我々は「共有体験」が本当に少なくなりました。
デジタル社会における「フィルターバブル」の中に入ってしまう「個人化」を危惧したアメリカの憲法学者、キャス・サンスティーンも、これらかの時代だからこそ「共有体験」が社会の連帯の鍵だと語っています。
表現においても、「受け手」のいない表現はもはや表現として成立しているのかという問題があります。表現とは、実は広く「コミュニケーションの自由」であるということですよね。
ゆえに、表現にとって無観客などクソくらえ。観客がいるからこそ、そこで空気振動をリアルに体感するからこそ生じるあの言葉にできない一体感と熱気。
ゴー宣道場もそうです、観客がいるから、そこに生身の人間がいるから、あの空気振動をリアルに共有しているからこそかけがえのない「体験」として持ち帰れるのです。
思想家のアドルノは、CDが普及して「台所で演奏が聴ける」ようになったことを嘆き、批判し続けました。
オリンピックもそうでしょう。
でもこういうのって本当に「花びらがヒラヒラ舞い落ちる」のを綺麗を想えるか、というレベルの感覚の問題なので、非常に説明が難しいし、感じなければ感じない、という話ですよね。
先日の【坂入健司郎×倉持麟太郎「表現者たちの逆襲~芸術は不要不急か」presented by #8bitNews 】
でも、そんな話を指揮者の坂入さんとみっちりしました。
週末のお休みの時間に是非!
動画はコチラ
↓