昨日、「倉持麟太郎の『このクソ素晴らしき世界』#8」で、「日本国憲法のアイデンティティ」をテーマに、動画配信いたしました(アイキャッチ画像は無視してください)。
「憲法・憲政・国体」の3つの視点から、この視点を巻き直すイメージでお話しました。
1.憲法は、客観的な「日本国憲法」という憲法典+憲法附属法の客観的な特徴について。すなわち、世界的に見ても憲法は世界平均21,000語くらいなのに対して、日本国憲法4,988語と少ない小さな憲法であり、「余白」が多い憲法です。これは、「人」の法解釈・運用をする「余白」が多いということであり、「人の支配」に偏るというネガティブな側面があります。
2.次に、憲政。
これは、要は憲法の解釈・運用の総体のこと。主要なアクターは、政党・行政&官僚機構・司法。
しかし、突出して政党と行政&官僚機構に偏っており、このアクターたちに、「余白」を”勝手に”埋められることによって、我々主権者の主権が「横取り」されています。
特に!「政党が力を増せば国会が形骸化する」と言われるとおり、政党による国対政治や、与党の事前審査制などは、政党の悪弊の最たるもの。
コロナ禍を見ても、もはや政党は我々を「代表」する機関ではなく、一部の既得権益や特定の支持者を代表するものであり、我々主権者から憲法を遠ざける存在です。
3.そして、国体。
これも、いわゆる明治時代の国体というよりはもう少し広く抽象化した概念としてお話してます。一体日本の国体や準拠価値は何なのか。
アメリカは”unconstitutional”という状態は、「反アメリカ的」でありえるというアイデンティティが憲法との関係であり得ます。しかし、コロナ禍を見ても、日本は「非立憲的」が反日本的とはならず、むしろ日本的となりつつある。そんな中で、立憲的を体現されているのが天皇陛下であろうと思います。
このあたりの逆説やねじれは、ゴー宣でもいつか議論できれば面白いなと思いながら話しました。
コロナ禍での日本社会のありようは、やはり憲法やその中の自由、そして統治機構についての無理解や実践の乏しさが露になったんだろうと思っています。
これは一つの「問い」ですので、是非みなさんも、ご感想いただければありがたいです!
動画はコチラ
↓