その日(昭和55年7月2日)、大学生だった私は、
映画会社の京都にある撮影所に出向いていた。
目的は、孝明天皇を“刺し殺す”という過激な場面を
敢えて設定した映画会社に、抗議すること。幸い、同社の映画製作部門のトップで撮影所の所長
(常務取締役・企画製作部長、後に社長)と同作品の監督に
直接、私の考えを伝える機会を得た。
東京からは、友人と後輩が一緒だった(この後輩が、東京から
京都までどしゃ降りの雨の中、高速道路を1人で軽自動車を
運転してくれた)。先方は、先の2人の他に、東京の本社で会った強面(こわもて)の
チーフ・プロデューサーなどもいた。
“会談”では、ほとんど私と監督がサシ(差し向かい)で
話し合う形になった。
監督は、私の抗議に対して、一つ一つ真正面から
丁寧に答えてくれた。明治天皇までは皇室のご祖先として、
作品でも配慮して扱うつもりだ。
しかし、孝明天皇はもはや歴史上の人物なので、
そこまでの配慮は必要ないと考えいる。
刺し殺す場面もシルエットにして、それなりに
配慮したつもりだ。
元々、娯楽作品なので、史実を忠実になぞる必要はないし、
むしろそれでは面白い作品にはならない。
等々。それに私が更に反論を重ねた。
そうしたやり取りが暫くあった後、監督は穏やかにこうおっしゃった。「あなた達の気持ちはよく分かりました。
今回の作品は、わざと皇室を貶めるつもりは全くなかったけれど、
配慮が足りなかった。その点、申し訳なかった」と。その上で、頭を下げられた。
その真剣、誠実な態度に私は感動した。
しかし、その場では心を鬼にして、更にこう申し上げた。「監督、今の発言によもや嘘はありませんね」
「勿論だ」
「ならば、それを今、そのまま書面にして下さい。
東京では、成り行きを心配している人達が、他にもいます。
その人達にもしっかり伝えたいので」
「そんなの造作もないことだよ」
「有難うございます」この場面に至って、撮影所長やチーフ・プロデューサーらが
急にうろたえた。
撮影所長が口を挟む。「監督、待って下さい。
今回の件は、あくまでも映画を制作した私らの責任ですから。
ここから先は、私らに任せて下さい」と。
「高森さん達もそれでいいですね」
「勿論です。ここからは、所長さん、そちらと話を詰めましょう」。後日、映画業界の事情に詳しい人に聞いた話では、
万が一にも監督本人に謝罪文を書かせるような事態になれば、
業界内で悪評が立って、映画会社として今後の映画製作に
悪影響を及ぼすのは避けられないから、
それを一番、恐れたらしい。かくて、常務取締役・企画製作部長名の謝罪文(7月8日付)
を受け取り、上映中の同作品の該当部分(フィルム35メートル余り)
のカットなどを約束して貰った(7月16日付)。
他に、例のチーフ・プロデューサーを連れて、孝明天皇を葬った後
月輪東山陵(のちのつきのわのひがしのやまのみささぎ、
京都市・泉涌寺内)と、同天皇の尊霊を祀る平安神宮(同市)に
お詫びの参拝をした。二十歳そこそこの学生が、手探りで行動したにしては、
手前味噌ながら一定の成果を得ることが出来たと思う。
この時の取り組みについては、私の働きかけで
「週刊文春」「マスコミ文化」「時の課題」「神社新報」などが
取り上げてくれた。
但し、今、私の手元には「マスコミ文化」(同年8月号)と
「時の課題」(同9月号)しか見当たらない。
いずれにせよ、お金がなく、地位も名声もなく、何も持たない若者でも、
懸命にやれば何かしらの結果は出せる、ということを、
私はあの時の経験から学んだ(もう若者ではないが)。【高森明勅公式サイト】
https://www.a-takamori.com/
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