天皇の皇位継承に伴う重要な祭儀が大嘗祭(だいじょうさい)。
その大嘗祭の大切な付属行事に「御禊(ごけい)行幸(きょうこう)」
があった。神聖であるべき大嘗祭を行うに先立って、
天皇ご自身が京都の鴨川などに臨まれ、諸々の穢(けが)れを
除き清める行事だ。大嘗祭が応仁の乱以降、9代の天皇、221年間に亘(わた)り中断した後、
江戸時代に再興してから現代に至る迄、この行事は途絶したままだ。
その御禊行幸を巡り、興味深いエピソードがある。仁明(にんみょう)天皇の大嘗祭(833年)の際、御禊行幸に奉仕した
「故事」に詳しい池田朝臣春野(いけだの・あそん・はるの)が、
他の貴族達の装束(しょうぞく)を見て嗤(わら)った。「それは“古来の伝統”の装束ではない」と。
その上で、自分が身に付けているものこそ「古来の伝統」の装束だ、
と威張った。
ところが、それはシナ唐の装束のまんまだった
(『続日本後紀〔しょくにほんこうき〕』承和〔じょうわ〕5年
〔838年〕3月8日条)。恐らく行幸の儀式が整えられた当初は、当時の日本にとって
“先進国”だった唐を手本にしたのだろう。
奈良時代には、朝廷の貴族・役人の平素の服装自体が唐風だった。
しかし、平安時代に入ると、文化全体の「和様化」「国風化」が進む。
つまり、わが国の気候・風土、生活様式、価値観・美意識などに応じた
「日本化」が図られた。その一環として、服装も“日本らしく”変化する。
「文化の和様化は、服装においても同様で、日本人の生活様式に
ふさわしい公家(くげ)の典雅な服装が形成されたのである」
(高田倭男氏)と。現在、皇室や神社の祭祀などで用いられている装束は、
平安時代の“国風化”によって「形成」されたものだ。
しかし、春野は「日本人の生活様式にふさわしい…典雅な服装」を
排除し、唐風装束こそ“古来の伝統”(!)と言い張って、
頑(かたく)なに墨守(ぼくしゅ)しようとしたのだろう。
何だか、現代でも同じような光景を見かける気がするのは、
錯覚だろうか。「もともとは国粋主義のつもりで主張していたはずなのに、
実は、皮肉にも中国文化偏愛主義になっている」(工藤隆氏)とか。【高森明勅公式サイト】
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