宇野常寛さんをゲストに、倉持麟太郎師範の基調講演を
軸に行われた昨日のゴー宣道場、とても面白かった。
学術会議の言う「学問の自由」は大騒ぎになっても、
子ども、学生に不要な「コロナ対策」を強いて、
自由に学べない、自由に遊べない空気はおかしいという声は
圧力に押しつぶされてしまう。
コロナで飲食店に自粛や時短営業を要請することで、
「営業の自由」を奪うばかりか、そのような言説があるだけで、
店に対する営業妨害になっているという声も無視されてしまう。
飲食業など主にサービス業で働く人、非正規雇用の女性たちが
職を失っており、その現実のなかで女性の自殺者が急増している
実態がデータとして明らかにされても、
「経済にブレーキをかけろ!」と言う。
日本の、今の、現実からは完全に浮いた世界観を、
まるで正義に奉ずるかのように珍重することで、自分の席を確保し、
心の安定を得ているような、一部のエリートのための権威主義が、
「リベラル」の中にカビのように繁殖しているのだと思った。
そして、自由は、それそのものが不安感や孤独感や劣等感を
刺激するものでもあって、
その不安定さが大きくうねり出す事態が起きると、
簡単に「自分で考え、自分で判断する自由」から逃げ出し、
指示・管理・束縛・罰則・統率を求める超ドMの権威主義に
陥ってしまう。
コロナ1つでリベラルが自由に耐えられなくなって、
リベラルを捨て、社会の弱者を見殺しにすることに加担する。
「自由だーーー!」と犬井ヒロシみたいに叫んでいても(←古い)、
その自由が自由を殺すことがあるという危険を覚悟しておかなければ、
最後まで自由を愛せないんじゃないかと思った。
今年、自由を殺したのは「コロナで死にたくない」だ。
日本ではコロナ以外の病気や事故で年間130万人が死んでいるのに
「コロナで死にたくない」「なんとしてでも生きながらえたい」。
それが弱者を社会から押し出して、殺している。
そして「保守」にも同じ「コロナで死にたくない」が爆発している
んだからすさまじい。
「保守」は男系絶対派の人々のように、同じ姿勢のままで頑なに居座り
つづけることではないと思うし、明治時代からほふく前進を続けて、
議論も思考も変えず、サビやカビの繁殖を称賛することでもないと思う。
「歴史から学ぶ」はずが、「気持ちいい過去のなかに強くしがみつき、
現実と未来を放棄する」というようなことにすり替わってしまう、
そんな劣等感の罠を感じることがあるし、
皇室について、自分の思う通りの過去を維持させたいという執着心、
妄念をあらわにして、幼児退行したかのように駄々をこねているのが、
「自称保守」の人の、「終わりのはじまり」状態なんだとも思う。
私は、過去から学んだことは、それを養分にできて、現在に実践して
生きる姿勢が持ててこそ、その人の内面、思考、判断の自由度が
広がるものなんじゃないかということを常々考えるようになっていて、
さらに今回の『コロナ後のリベラル』というテーマを通して、
その「自由」について、簡単に放棄する現象が起きたこと、
その罪深さ、癌のようなエゴイズムをはっきりと検証し、刻み付けて、
再生していかなければと強く思った。
これは、年明け1月9日(土曜)開催の
「オドレら正気か?新春LIVE-コロナ禍は誰が終わらせるのか?-」
につながっていきます。
みんな新春LIVEには集結してくださいね!