倉持師範の『リベラルの敵はリベラルにあり』、
読了しました。
本当はいただいてからすぐに読み始めたのだけど、
ちょっと、これは細切れ時間で読むべき本ではないと判断。
まとまった時間で、相当に集中しないと
頭が追い付いていかない・・・。
というわけで、今になってしまいました。
一言でいうなら、相当に野心的な内容でした。
リベラルの立場から、自称リベラルの欺瞞を明らかにする。
と同時に、今の政治の体たらく(=政治的なるもの)の
構造がリベラルの視点から分析・整理されていて、
読む(理解する)のは苦しみながらだったけど、
なるほどと勉強になるところが多くあった。
また後半の憲法論議は、道場でも何度かテーマに
なっているから、こちらは読み進めながら
あらためて倉持氏の熱量を感じた。
「政治的なるもの」のギョーカイで、
話にならないハリボテ民主主義を目の当たりにして、
それでもなお諦めないニヒリズムとは対極にある姿勢、
これは本当に尊敬する。
ただ一方で、リベラルとは何か、
読みながら混乱していったのも事実だ。
リベラルは、崇高な理念を普遍的価値として掲げるけれど、
それ自体に「上から目線のエリート思想」が
内包されているのではないだろうか。
また、それを理想として実現できると思っている時点で、
リベラルが失敗した理由であると倉持氏が指摘する
「強い個人」を想定しているのではないだろうか。
リベラルを突き詰めて再設計してみても、
果たして崇高な理念は本当に実現可能なのだろうか。
もちろん崇高な理念は手放すべきではないし、
それを普遍的価値とすべく努力していかなくてはならない。
だけど価値観が急に変わるわけではないし、
人間誰もがいきなり強い個を持てるわけでもないし、
失敗もするし、基本的に自分がかわいい生き物だし、
要するにどうしようもないのが人間なわけで、
あらゆる制度設計を変えたからといって
それが即リベラルな社会になるわけではないと私は思う。
改革ではない、少しずつ変えられるところを変えていく、
その地道な営みの先に「昔よりちょっとマシな社会」が
あるのではないか。
空を見上げることも大事だけど、
足元を見つめていかないとスっ転ぶ。
そんなことを考えながら、圧倒的な熱量の本を
読み終えたのでした。
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