淑女我報「『コロ問い』著者に聞く」、見てね。
『新型コロナ 専門家を問い質す』の発売まであと3日です。
淑女我報を見て、飛沫の大きさ=「5ミクロン以上」と
書いてある本をまだ借りっぱなしだったのを思い出して、
返却してきた。
校了直前に「5ミクロン」と確認して、解決していたんだけど、
なんだか「念のために」が作動して、翌朝、また図書館で
飛沫感染について書いた本を探してきていたのだった。
しつこいんだよ、私ってば。
でも、すごく素朴なことを言うと、これから寒くなれば、
早朝、そこかしこでマスクから白い息が漏れているのを
肉眼で確認することになるんじゃないの……?
すごい勢いで執拗さを発揮して制作された『コロ問い』、
見本を10冊もらったので、自分で献本したい方々に宛てて
何通か手紙を書いて、ものすごい勢いで発送した。
それから、写真の処理の仕事を延々とやりながら、
志ん朝の晩年の「文七元結」の音源を聞いたんだけど、
おとっつぁんが文七に50両くれてやる場面が凄まじくうますぎて、
ぐっとこらえるような情が胸に迫って泣いてしまった。
耳で聞いていただけなのに、驚いた。
志ん朝は「火焔太鼓」「大工調べ」「お見立て」が好きで、
20代の頃、自分の文章のリズムをもっとするすると読めるものに
調律する感覚で、本当に何回もCDを聞いたのだけど、
この晩年の「文七元結」は、収録されていたものとはまるで出来が
ちがって、大変な名演だった。
落語には、困窮した母子や、困って身投げしようとする若者と、
ふところが深くてお節介な名もなき市井の人が出くわして、
物語が展開するというパターンがちょくちょくあるけれど、
この頃の現実の社会は、ふところの狭さ具合がすごすぎる。
ふところって、他人をどうこう思う前に、
まず自分自身の人間としての清濁を自覚していないと、
広くなっていかないものである気が、今はしているけど。
志ん朝が、まくらで、
以前は、娯楽を選ぶ権利は大人にしかなかったのに、
近頃は子どもの見たがるテレビに、親のほうが合わせて、
一緒になってホエーッと見ているから、テレビに登場するものしか
わからなくなって、バカで幼稚な大人ばっかりになっていると、
おもしろおかしく話していた。
25年ぐらい前の録音だったので、寄席演芸の危機感もあって、
テレビに対する皮肉をきかせたのかなと思うけど、
そこからさらに、親子が一緒にテレビを見ることすらなくなり、
子どもと親は、それぞれ一人でスマホ、老親はテレビと、
とことんバラバラの家族が増えていって、
そこに「コロナ恐怖」で水を得た魚のようになったテレビが
とことん有害な放送をくり返して人々を釘付けにし、
たちまちのうちに社会全体を狂わせてしまったのだから、
もうむちゃくちゃだ。
テレビは報道も含めてすっかり「テレビ・ショー」だ。
いつまでたっても客観性のなさが酷すぎる。
困窮した人々を冷酷に無視しつづけ、社会から孤立させて、
自殺者がどれだけ増えようと、とことん無視して、
ふところ狭く「コロナ怖い、コロナ怖い」!
まともな庶民は、生活するために、家族を養うために、
店や会社を守り、従業員を食べさせていくために、
気をゆるめてる暇なんかないんだ!