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高森明勅
2020.5.30 06:00その他ニュース

「独断」「独裁」をするな!

聖徳太子の憲法十七条。

冒頭は有名だが、最後の条文を知っている人は
どのくらいいるだろうか?

 

日本古典文学大系本によって引用しよう(但し一部改めた)。

「夫(そ)れ事(こと)は独(ひと)り断(さだ)むべからず。
必ず衆(もろもろ)と論(あげつら)ふべし。
少(いささけき)事は是(これ)軽(かろ)し。
必ずしも衆とすべからず。
唯(ただ)大きなる事を論ふに逮(およ)びては、
若(も)しは失(あやまり)有(あ)ることを疑ふ。
故(かれ)、衆と相弁(あいわきま)ふるときは、
辞(こと)則(すなわ)ち理(ことわり)を得(う)」

独断・独裁を排除すべきことを強く唱えている。
念の為に現代語訳する。

「物事を独断で決めてはならない。
必ず多くの人々と議論せよ。
もっとも、細(こま)かいことは取るに足りないので、
必ずしも人々に諮(はか)らなくてもよい。
大切なことを論じる時には、もしかして過失があるかも
しれない。
それゆえ、多くの人々と共に検討する時、
結論は道理にかなうものになろう」

これが第1条の“議論の勧め”と対応していることは、
誰でも気付くだろう。

どちらも「論ふ」=議論を重視すべきことを強調している。
その前提になっているのは、「達(さと)る者少なし」(第1条)
つまり飛び抜けた賢者は殆(ほとん)どいない、
という冷徹は人間観だ。

だからこそ、至らない者同士が互いに意見を出し合って、
議論することに意味がある。
重大事に対し、道理にかなった結論を得る為には、
衆議を尽くすことが欠かせない。
独断・独裁を避けるべきなのは、そこに根拠がある。

第10条で“異論への寛容”を説いた中にも、
次のような指摘があった。

「他人の考え方が自分と違うからと言って、怒ってはならない。
人にはそれぞれ心があり、それぞれに“拘(こだわ)り”がある。
相手が正しいと思っても、自分は間違っていると考え、
自分では正しいと思っても、相手は間違っていると考える。
しかし、自分が必ず飛び抜けた賢者で、相手は必ず呆れ果てた
愚者であるとは、決まっていない。
共に平凡な人間に過ぎない。
どちらが正しいかを、片方の考え方だけで決めることが出来ようか。
互いに賢者であり愚者でもあって、耳金(みみがね=金属製の耳飾り)
に端(はし)がないように、簡単には区別がつかない」

深い洞察だ。
正真正銘の“飛び抜けた賢者”だった聖徳太子(だからこそ、
「聖徳」という最高の諡号〔しごう〕を贈られた)
ご自身が、このように述べておられるのは、
一段と重みがあるだろう。

【高森明勅公式サイト】
https://www.a-takamori.com/

高森明勅

昭和32年岡山県生まれ。神道学者、皇室研究者。國學院大學文学部卒。同大学院博士課程単位取得。拓殖大学客員教授、防衛省統合幕僚学校「歴史観・国家観」講座担当、などを歴任。
「皇室典範に関する有識者会議」においてヒアリングに応じる。
現在、日本文化総合研究所代表、神道宗教学会理事、國學院大學講師、靖国神社崇敬奉賛会顧問など。
ミス日本コンテストのファイナリスト達に日本の歴史や文化についてレクチャー。
主な著書。『天皇「生前退位」の真実』(幻冬舎新書)『天皇陛下からわたしたちへのおことば』(双葉社)『謎とき「日本」誕生』(ちくま新書)『はじめて読む「日本の神話」』『天皇と民の大嘗祭』(展転社)など。

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