明治維新政府は慶応4年(明治元年)閏(うるう)4月15日、
(由緒ある世襲親王家だった)伏見宮家・有栖川(ありすがわ)
宮家・閑院(かんいん)宮家以外の宮家は全て“一代限り”とする、
太政官布告を発した。これによれば、例えば傍系の更に傍系に当たる
北白川宮家の(非嫡出の)第1王子だった恒久王は当然、
皇族の身分を離れねばならなかったはずだ
(北白川宮家自体は〔嫡出の〕第3王子の成久〔なるひさ〕
王が継いでいた)。ところが、そのまま皇族に留まり竹田宮家を創設した。これは何故か?明治天皇の内親王の“嫁ぎ先”として、皇室に留まることが
出来たという見方がある。「明治天皇には1世の女子(内親王)が10名おり
(全て4人の側室の子ー引用者)、そのうち6名は夭逝
(ようせつ、年若くして亡くなること)した。
残る4名は成人し、その嫁ぎ先が必要だった。
とりわけ明治天皇は、内親王は皇族に嫁すべきであると
考えていた。しかし、明治天皇の4内親王にふさわしい適齢期の男子がいる
既存の宮家の当主や嗣子は少なく、新たな宮家を設置せざる
を得なかった。その結果、4内親王のうち、周宮房子(かねのみやふさこ)は
既存の北白川家に嫁いだが、そのほかの3内親王はそれぞれ、
竹田宮、朝香(あさか)宮、東久邇(ひがしくに)宮の
新設宮家に嫁ぐこととなった。これらの新3宮家が内親王の嫁ぎ先たることを主目的として
設けられたか否かについては議論があるが、客観的には嫁ぎ先
としての意味を持った」と(小田部雄次氏『天皇と宮家』)。竹田宮家の場合、宮家を創設(明治39年)して僅か2年後には、
明治天皇の第6皇女・昌子内親王を妃として迎えている。
こうした経緯を顧みると、その子孫の中に、男系よりも女系を
重く見て、明治天皇の末裔である事実を誇る人物が現れるのは、
むしろ相応しいことのように思える。【高森明勅公式サイト】
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