昨日のよしりん先生との立憲主義とは何か、は、実はかなり広範かつ本質的な立憲主義と民主主義についての論点を網羅していたと思う。
法に価値を見出しすぎている?
法は道具であり目的のための手段であることは完全同意するが、それが法自体のもつある種の事実関係や社会生活への影響自体を無価値にするものではないはずである。道具だろうがなんだろうが、法は我々の人生を左右しすぎる。私は日々そう思っている。法を使いながら人の人生に深くコミットしていくことの緊張感は本当にやりがいがあると同時に、無力感もすごかったりする。だからこそ、神経質に慎重に扱うべき取扱い注意の「道具」だ。
一方で、法だけでは絶対にうまくいかない。よしりん先生と話しながら出てきていた「不文律」や「意識」の問題である。これが共有され理解されていないと、また、肌感覚でなんとなく「おかしいぞ?」とか「こっちが正しいんじゃないか?」みたいなものが醸成されていないと、法や制度があってもうまくいかない。法や制度が”固い”「ガードレール」だとしたら、こういう不文律や意識みたいなものは、立憲主義や民主主義の”柔らかい”「ガードレール」だ(民主主義の柔らかいガードレールについてはスティーブン・レビツキー, ダニエル・ジブラット著『民主主義の死に方』)。
そしてやはり、このどちらも、もはや政治家や選挙にはもう任せておけない。
選挙・代議制民主主義はもう機能していない。世界を見ても、選挙ってヤバくないか?という結果ばかりである。
それでも選挙はなくすわけにはいかないので、民主主義の奥行を広めにとるしかない。つまり、民主主義の選択肢を選挙からもっともっと広げる。選挙の力を相対化する、ということだ。
それは、市民運動であり、シンクタンクであり、個々人の活動である。これを、いわゆる選挙・代議制民主主主義に対置する民主主義として「カウンターデモクラシー(対抗民主主義)」ということがある。
ゴー宣道場は、カウンターデモクラシーの担い手の重要な一つになれるしなるべきだしなっていかないとこの国の民主主義はこれ以上どうにもならない。
枝野代表が「リソースもないから何もできない」といった。
生前退位の法案、何人で進めたか?よしりん先生や高森先生などのゴー宣師範+山尾議員+野田・馬淵両氏・・・数人でできるではないか!
リソースがないからできないなんて言い訳だ!情熱と能力があれば、数人で凄まじい成果を得ることができるし、具体的な政策や法案の企画・立案ができる。100%できる。
私だって、弁護士2人で日々事件にあたっているが、550人抱える日本最大規模の法律事務所にだって勝つことが出来る。情熱と能力と、そして、あきらめない心だ。
もう政治家や選挙はいい意味で放っておこう。政治家にしかできないこともたくさんある。そんな彼らがいざというときに共闘したり、正当性を調達できるようなカウンターデモクラシーを作っていかねばならない。
その担い手として、ゴー宣道場はあまりに適役だ。
ボーカル・マジョリティ、そして、カウンターデモクラシー、なんとなく、見えてきた気がする。
さ、第九でも聴きに行こう。
是非私が書いたこちらも読んでくり。
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分断と対立に立ち向かう「愛」の第九交響曲
ロスフィル100周年コンサートのドゥダメル指揮「歓びの歌」と自由の“光と影”@朝日新聞『論座』
https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019122400010.html