女と男《1》
きょうは締め切り。ブログを書いている場合じゃないのだけど、
まずいことに頭がちっとも働かなくなった。
文章を組み立てる能力を司る脳のどこかが眠ってしまったみたいだ。
九州で、何人もの人が「ブログが面白い」と言ってくれたので、
もっと裸婦に、いやラフに、自分の考えていることを書こうと思った。
ただ私はあちこち興味関心が向きすぎるので、ひとつのテーマを
深堀りしてねちねち書いたほうが面白いんじゃないかと考えた。
この際だから「女と男」というテーマで、時々、エッセイみたいに
さらさら書いていこうと思う。
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母性についての議論をしながら、やんわりと「母性」とは一体
どういうものなのかを考えていた。
辞書を引いていろいろと読んでみたけれど、なんだか理屈っぽくて
自分の感覚とは違う気がする。
なんでもしてあげたい、世話をしてあげたい、甘えさせてあげたい、
そういうものが母性であるような雰囲気もあるけれど……。
私自身のなかで体験したことのある感覚をいま一度さぐったとき、
母性というのは、そういったセカセカした行為そのものではなく、
いつくしみの心で受け入れて包摂する、
「抱く(いだく)」感覚のことではないかと思い至った。
上皇、上皇后両陛下が、オランダの養護学校へお出ましになった時、
歓迎式典が終わってから、泣きながらとことこと駆け寄ってきた
小さな女の子を、美智子さまがすっとしゃがんでとても優しく
抱きしめるという場面があった。
オランダの人々を深く感動させた出来事としても報じられたけれど、
私は、あのお姿は、母性の象徴なのだと思う。
抱いて、受け入れて、包摂していく、
見返りを求めるような気持ちはないもので、
ただの優しさではなく、芯の強さや胸の深さがあるものだと思う。
受容には覚悟がいるのだ。
子どもを産んでいる、産んでいないは関係ないかもしれない。
母親であっても、母性をずっと持っているかどうかもわからない。
虐待親のように、母性があるとは思えない人間もいるからだ。
どこかで私欲や自己愛にまみれてしまい、見失ったり、濁ったり、
でもまた思い出し、取り戻すものかもしれない。
美智子さまのあの象徴的なお姿ほど完全なものではなくとも、
そこに共鳴する感性があり、抱いて、受け入れて、包摂するような
母性的感覚を持つ女性はたくさんいると思う。
そこから「なにかしてあげたい」「お世話してあげたい」という
気持ちも生まれているのではないだろうか。
だからあまり母性の否定はできない。
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今後、このテーマで書くときは番号をふる。
推敲はなし。さらっと。
だからまったく真逆のことを書き出すかもしれない。