iPhoneしかなくてチマチマするが、
熱いうちに感想を書いておきたい。
九州ゴー宣道場、あっという間に終了。
準備にいろいろと大変な事がありましたが、
無事に設営をして下さり、設営隊のみなさんありがとうございました。
男尊女卑についての議論の過程では、
自分の意識を客観視するのが難しく、
「ああ、そうだったのかも!」
と思うことが多かった。
基本的にわがまま人間だから、なおさらだ。
私は男性に助けられた部分が多いので、
良いと思う男性には、
多少のことは大目に見るところがある。
性格やクセを観察するので
「こうして欲しいんじゃないか?」
と考えるような感じだ。
でも、そういうのは、
イザベラバードが見た奴隷の女と同じで、
あまり良いことじゃないのかな?
たしかに過剰になると、顔色を伺うだけになり、
あまりに都合のよい女になると思う。
公的な場面では必要ない感覚だなと思う。
でも、恋愛中の男性にはなにかしてあげたいという感覚で、
いそいそと食事を作ったりするのを、
「そんなのは奴隷だ」と否定されると、
意思や愛情表現を馬鹿にされるような、
すごく嫌な気持ちになる。
また、どんな言い訳をしてでも相手のそばにいたい、
それぐらい好きになってしまって…という心情もわかる。
だから、どんな最悪な部分を持つ良人でも、
全体を受け入れようと必死にもがいて、
自分の独占欲を捨てようと自分に言い聞かせる妻の心境も
わかるところがある。
「好き」の牢獄だから、そうなるのではないかと私は読んだ。
ただし、自分にはできないが。
「できないから、わかりたい」という心理かもしれない。
ここ、恥ずかしいわ〜!
ただこの「そのくらい好き」は難しくて、
最後まで自己愛だったという場合もあるし、
良くない依存関係に移行していく危険も孕む。
相手が調子に乗る場合があるし。
女性が母性をうまく舵取りできるものかどうか?
という問題もある。
子供に対して見返りをまったく求めない愛情を持つ人は
大勢いると思うけど、
好きになった男性に対しても、それに似た態度を取り続け、
調子に乗った男性が甘えて胡座をかく状態が出来上がると、
それはつまり
「いつまでも子供で、横柄な男であることを許される」
という結果になっていくかもしれない。
子離れ・親離れが必要なように、
男性も女性も母性に寄りかかっている場合は、
舵取りがいるかもしれない。
それを私的生活に求めるのは難しいとも感じてしまうが…。
「泥にまみれて」には、
石川達三が女性の心情をよく読んでいる部分もあれば、
石川本人が持つ、母性への幻想が
かなり投影されてもいる作品だと私は思っている。
だから文学としてかなり楽しめる。
ただ、現実に立ち戻ると、
真逆のフェミニズムの言説は、
ある意味で「ストッパー」になる部分もあり、
すべて否定はできないと思い直した。
子育てに関しては、子供を持つ母親が弱者になっている状態を
置き去りにした競争社会の現実を、
もっと政治家が理解して欲しい。
いまの庶民の生活には、どんなことが起きていて、
働きながら子育てをしていくには、どんな暮らしのできる町が良いのかを
考える目線がもっとたくさん必要だ。
それがないのに「なんで産まないんだ?」と
女性に責任を押し付けるのは問題外だし、
付け焼き刃のようなスローガンでごまかすのでなく、
「根本的にこの方針でいいのか?」
を考える勇気のある政治家がいてほしい。
そのためにも、女性の視点を論理的に語れる政治家を
もっと育てる土壌を作らなければならない。
だから女性がもっと政治や国家に意識を向ける必要がある。