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高森明勅
2019.6.19 06:00皇室

性別を超越される「天皇」

これまでの最後の女性天皇は江戸時代の後桜町天皇(117代)。
明和元年(1764年)に大嘗祭を執り行っておられる。
明和の大嘗祭については、同天皇ご直筆の『後桜町天皇シン(ウ冠+辰)記』
(京都御所東山御文庫)やご装束の調進に携わった山科(やましな)家当主の
『頼言卿記(よりとききょうき)』(自筆原本、国立公文書館内閣文庫)など、
当事者によるその時の記録(第1次史料)が現存する。

それらの極めて信憑性の高い史料を元に、
同大嘗祭を巡って実に興味深い事実が報告されている
(宍戸忠男氏『神道宗教』196号所載論文)。

後桜町天皇は心身をお清めになる廻立殿(かいりゅうでん)までは、
御五衣(おんいつつぎぬ)・御唐衣(おんからぎぬ)など、明らかに女性の
装束をお召しだった。

ところが、同殿で男性天皇と同じ「御祭服(ごさいふく、御斎服とも)」
にお召し替えになって
悠紀殿(ゆきでん)での神事(しんじ)に臨まれた。
それが済むと廻立殿で又、女性の装束にお召し替えになり一旦、
常の御殿(清涼殿)にお戻りになる。更に主基殿(すきでん)での神事に当たっても、
同じように廻立殿で御祭服にお召し替えになっていた。

ここで注目すべきは、男性天皇なら冠(かんむり)を被(かぶ)られるのに、
女性らしく釵子(さし=かんざし)を終始お着けのままだった点だ。
これは、同天皇がことさら“男装”されたのではなかった事実を示す。
そうではなく、御祭服は男女いずれであれ、最も大切な神事に当たって「天皇が」
お召しになるべき装束だった。
なので、それにお召し替えになったに過ぎない。
つまり、天皇の最も大切な祭祀である大嘗祭に当たり、
特にお召しになる御祭服という装束それ自体が、天皇という至高の地位にとって、
男女の区別など“二の次”に過ぎない事実を証明しているのだ。

「男尊女卑」が通念になっていた江戸時代での事実だけに、重大な意味を持つ。

【高森明勅 公式サイト】
https://www.a-takamori.com/

高森明勅

昭和32年岡山県生まれ。神道学者、皇室研究者。國學院大學文学部卒。同大学院博士課程単位取得。拓殖大学客員教授、防衛省統合幕僚学校「歴史観・国家観」講座担当、などを歴任。
「皇室典範に関する有識者会議」においてヒアリングに応じる。
現在、日本文化総合研究所代表、神道宗教学会理事、國學院大學講師、靖国神社崇敬奉賛会顧問など。
ミス日本コンテストのファイナリスト達に日本の歴史や文化についてレクチャー。
主な著書。『天皇「生前退位」の真実』(幻冬舎新書)『天皇陛下からわたしたちへのおことば』(双葉社)『謎とき「日本」誕生』(ちくま新書)『はじめて読む「日本の神話」』『天皇と民の大嘗祭』(展転社)など。

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