社会学者の見田宗介氏が、
“近代的自我”について興味深い指摘をされていた。「文学にあらわれた『最初の近代人』といわれることもあるハムレットは、亡霊の場や、共同体を身体とみる感覚にも示されるように、前近代の身体感覚をまずは生きていたはずである。けれども第1幕2場、新国王の結婚・即位発表の場に初めて登場するこの王子は、母を奪い父をおそって即位した新国王、今はその妃である母、そして廷臣たちという複雑な〈関係の磁場〉で、交錯する視線にさらされる自己の身体のよそよそしさと、誰にも言うわけにはいかない『内面の真実』という、デカルト的な身心の分離を強いられる。…このように、〈関係の交錯〉の強いる“居心地の悪さ”が、原理として一般化した状況こそが〈近代社会〉ではなかっただろうか。近代的自我とは、このような『居心地の悪さ』の中で、身体がみずからの『内部』に向かって析出する幻影であるかもしれない」近代的自我とは、近代社会が恒常的・構造的に人間の身体に強いる「居心地の悪さ」に対応して、身体自身がその内部に作り出した「幻影」で、主語はあくまでも“身体”
面白い仮説だ。