憲法学者で東京大学教授の石川健治氏が再評価する法哲学者、尾高朝雄。「ノモス主権」論を唱えた尾高本人の文章を紹介しよう(「国民主権と天皇制」『新憲法の研究』昭和22年)。「国民主権主義と天皇制とは一見対立してゐるがごとく見えて、実はその根本において帰一するところをもつものであることが知られる。これまでの日本では、天皇制が絶対に尊厳なものとされて来たけれども、それは単に天皇統治なるが故に尊いのではなくて、天皇統治は“正しい統治の理念”なるが故に尊厳であり得たのである。同様に、国民主権もまた、決してただ国民が主権者といふことだけで、讚美に値するのではない。…国民主権主義が尊いのは、やはりそれが“正しい統治意志の理念”を表現してゐるがために外ならないのである」「天皇主権といひ、国民主権といふ、いづれも単なる政治上の最高の力ではなくて、政治上の力の更に上に在つて、一切の政治動向を制約すべき客観的な“正しさ”なのである。むかし、ギリシャの詩人ピンダロスは、『ノモスはすべての人間と神々との王なり』といつた。政治の根源としての主権は、一切の王、すなはち、一切の地上の権力者の上に在つてその行動を規律するノモスであり、ディケエであり、ロゴスでなければならぬ」「勿論、ノモスを主権の本義とするも、その主権の所在を国民とするか君主に置くかは、現実政治の上に重大な問題をおよぼす問題である。なぜならば、いかに強大な権力をもつ君主もノモスの権威にはしたがはなければならないといふことは、言葉としてはいひ得るけれども、そのノモスの何たるかを現実にとらへるものが君主一個の判断と意志とであるならば、結果としては専制政治と異なるところはないからである。…ただ、日本の天皇制は…その中に『君民一体』といふ理念を含んでゐる。天皇は、常に国民の心を以て大御心(おおみこころ)とし給(たま)ふところに、日本の国体の精華があるとされて来たのである。これも理念たるにとどまつて実質がともなはなければ、意味をなさない。しかし、君主と国民の間に対立と相剋とがくりかへされて来た西洋の歴史と比較するならば、この理念の中に日本の国家構造の特色として誇るべきものがあることは、否定できない。また、これを活かして行くならば、天皇統治の形の中に民主主義の精神を盛り上げることも決して不可能ではないといはなければならない。その意味からすれば、ノモスの主権が天皇によつて体現せられるか、国民の意志として表明せられるかは、日本では、相互に相容れぬ対立性をもつものではないといふべきである」―以前、尾高本人の文章を紹介すると書いたままになっていたので…。
今も耳を傾けるに値する指摘だろう。