みなぼんさん、古谷との対談読んでいただいてありがとうございました!
とても興味深い感想でした。
いくつか用語や私の見解の誤解があるようなので、説明しましょう。
まず、バリューフリーというのは、いわゆる価値相対主義のことです。そして、表現の自由の文脈で自由を語っていますが、表現の自由は人権です。人権を語るときに、どんな価値もOK、それぞれ否定しちゃだめ、なぜならバリューフリーだぜ。という価値観に警鐘を鳴らしています。
価値相対主義は、自己論駁的(自分で自分を否定している、という矛盾を抱えている)です。価値相対主義「価値ならなんでも尊くてなんでも否定できない」という価値観自体を絶対化しなければいけないからです。
そして、そのそれぞれの「人権」が価値相対主義の元に否定し合えないとなると、脆い人権は自主規制を生みます。そのことを本文中で指摘しています。
「「被害者」というのも、もっときめ細やかに見極めないといけない。これもある種のポリティカル・コレクトネスによって“金ぴか”の無敵の権利主体に仕立て上げられていないかということを見極めないといけません、
今度は、ポリコレによって表現が不当に狭められたり、自主規制の名のもとに正当な表現までもが思想の自由市場から退場させられる危険があります。これも、先ほど話した「悩み」や「躊躇」だと思います。独立した別人格の「他者」の権利を制限し得るときに、自己の権利主張が100%正しく100%権利行使できることなんでできないじゃないですか。どちら側からも、権利行使の「節度」が求められます。」
と書いてます。是非ここも引用してくださるとありがたかったです。
しかも、表現の自由をお花畑的に論じる護憲派憲法学の思考停止的な問題点を指摘しているのに、なぜそれが人権絶対主義などといったことにつながるのか理解できません。その証左に、この問題構造が9条と同じであるということを指摘しています。ここも是非引用してください。
さらに、私は特に表現の自由を人権論の中でも厚く保護せよという立場です。
憲法学では、二重の基準論という議論があり、精神的自由の方が経済的自由よりも価値が高いという議論があります。これに異を唱えたのが、井上達夫先生で、個人の自律からすると価値は同じだと主張されました。
これに対して、私は、それでも表現の機能的脆弱性(もろさ)から、表現の自由が優越すると再反論している立場です。つまり、数字と記号で枠を画される経済活動とは異なり、表現活動は規制されたり、他者の人権というふわっとしたもので規制されると、本来よりも後半に「自主規制」してしまうからです。
これは、明らかに表現の自由に特殊なものです。だからこそ表現の自由は特別であり尊いし、特に守られるべきものなのです。
これは、以前のブログでも書いているので、お読みいただけると、良いかと思います。
しかも、ヘイトスピーチを規制しないこと=人権後進国などとはどこにも書いていません。
GDPRをどうするのかといったときの企業の慌てっぷりや往生際の悪い議論をみていても、人権後進国であることは明らかです。なんでもかんでも「海外出羽守」といって目を閉じてはいけません。不適切な場面で不適切な海外事例を自己に有利になるように一方的&ご都合主義的に援用することは控えるべきですが、海外事例を援用することが適切な場面では、どんどん導入したらいいのです。なんでもかんでも「海外出羽守」ということ自体が、ご都合主義的です。
また、新潮45が売上のためだけにあんな差別的な特集組んでるのが許されるわけないでしょう。
さらにいえば、誰しもが表現をしたりプロとして書面を書いたりしているときには、常にリスクを抱えて自主規制や攻撃や失職の危険にさらされながらそれをしています。
こちらもこちらで日々そのような矜持で一枚一枚の書面を書いております。
人の人生や財産預かって書いてます。
一方的な批判や誤解には反論する必要があると考え書きました。
が、これらは直接の議論になじむものですので、みなぼんさんの問題提起も含め、是非議論しましょう、リアルな場で。外国人の問題でも、「自然権」の話についても、違和感があります。
12月9日のゴー宣道場に参加してください!
あ、添付し忘れた