最近イヤなことばかりで気が滅入る一方ですが、先日やったもうひとつの立憲フェスで倉持セレクトのCDをかけていただいていてびっくり嬉しかったのですが、せっかくなので、いくつかこんなイヤな世の中を吹き飛ばすクラシックを紹介します。
まずは年の瀬も近いのとなじみ深いので、チャイコフスキー作曲のバレエ音楽『くるみ割り人形』いきましょうか。
現代最高のオーケストラ芸術の体現コンビは、間違いなくサイモン・ラトルとベルリンフィルハーモニーのコンビでした。ラトルは今年6月で退任し、ロシアマネーに食われつつあるクラシック音楽界の象徴としてキリル・ペトレンコが後任ですが、はっきりいって、ラトルベルリンフィルの域に到達するコンビにはなりえないでしょう(ぺトレンコは楽譜ばっか見ててコミュニケーションがない)。
そのラトル&ベルリンフィルコンビのくるみ割り人形全曲の録音があります(ワーナークラシックス、2009年録音)。
これは、個人的にはラトルの録音群の中でベストだと思います。ラトルはベルリンフィルとはEMIとワーナーとベルリンフィル自主製作版がありますが、私はワーナーの録音が一番実際の演奏を再現できていると思う。
この録音、各楽器の重なり合いや楽曲をすべて解剖した後にもう一回作り直す過程を見せられるような写実的な描写とともに、とにかくスペクタクル。特に、かなり手綱をギリギリ締めて走ってきたあとの第2場「冬の松林で」の、遭難・凍死しかけたあとにもらったあったかいスープと温泉のような、生命の息吹に息を吹き込むような包容力、余裕、厳しい人が見せたほほえみのような温かみと、自由を得たオーケストラの唸り!緊張に追い詰められて死にそうな人が聴いたら涙が止まらないんじゃないか。
第二幕はまた開始の「お菓子の国の魔法の城」がすごい。こんなにメロディをゆったり歌ったらとまるんじゃないかというくらい弦が歌う。あまりの美しさに永遠を感じるようなメロディ。芸術はコスト意識と真逆にあることをわからせてくれる。この曲を何度も聞けば、おそらく疲れた時にあなたはこのメロディを口ずさんでるだろう。その後の第二幕の各踊りのベルリンフィルの名手の腕の見せ所はもちろん(トレパークの低弦がグリグリいうところとかたまらん)、あの有名な花のワルツの最後の最後の第一主題のトゥッティ(全楽器で演奏)の直前のふっと音量を消え入るくらい落とす演出なんかは、人の心のひだを完全に逆手に取った「にくい」演奏だ。
花のワルツのあとのパ・ド・ドゥ導入部は圧巻。はっきりいってメロディは「ドシラソファミレド」を繰り返しているだけの曲。本当に大切なことはシンプルに繰り返し手を変え品を変え伝えるしかないのだということを教えてくれるような曲だ。ラトルはこの作曲家の執拗な訴えをはにかみながら、庶民目線で伝えてくれるような、押しつけがましくない演奏だ。
とにかくチャイコフスキーという、性的志向も少数者であり、しかもロシアという冷たい社会に生きた作曲家の血反吐か遺書みたいなバレエ音楽(“白鳥”も“眠り”も、踊るためのバレエ音楽では到底ない。)を、現代に翻訳し、何より「オーケストラ」という媒体を最大化して目の前に提示してくれている、演奏家がいなければ作曲家は本当の意味で「死」んでしまうということをわからせてくれる一例である。ラトルよ、ありがとう。
なによりも、このCD,ジャケットがいい(アイコン画像参照)、猟奇的な少女がベッドからむっくと起き上がって、常軌を逸した目つきで見据える先にかなりリアルな老兵の容貌をしたくるみ割り人形がいる。完全にホラーである。そう、チャイコフスキーのくるみ割り人形とは、病んだ少女がみた幻想なのだ。演奏の内容ははるかに健全だが(笑)、このジャケットはこの音楽の本質をとらえている。
このジャケットが表現しようとしたくるみ割り人形の本来の世界観をそのまま音楽にしたのが、チェリビダッケ指揮ミュンヘンフィルのくるみ割り人形だ(EMI、1991録音)。
冒頭の小序曲や行進曲からして作曲家が恥ずかしがるのではないかというくらい遅いテンポで克明に楽曲を炙り出していく手法はいつもながら、特筆すべきは金平糖の踊りだ。完全に魔界の音楽である。気味が悪いといえば陳腐だが、いや、気味が悪い。一度インフルエンザのときに間違ってこのCDを聴いてしまって、悪夢にうなされたことがあるが、つまり、くるみ割り人形の演奏として理想的なんだと思う。
12月を前に、この2枚は、是非聴いてもらいたい。
11月末に私のお気に入りのベネズエラ人の権力と闘うスター指揮者ドゥダメル&ロスフィルのくるみ割りもリリースするので楽しみにしている、たぶんかなり健全な演奏だと思うが。
結局、元気が出るとか言いながら、変態的な演奏を取り上げることになりそうだが、徒然なるままに続けるで~