憲法学者で東京大学教授の石川健治氏。
忘却されかけている法哲学者、
尾高朝雄に改めて注目されている。
以下、同氏の論文から、
尾高の国家論のエッセンスを整理した部分を引用する
(「天皇の生前退位」法律時報88巻13号)。「尾高は、対米開戦直前の〔昭和16年〕
9月26日に〔日本統治下の朝鮮に設立された〕
京城〔けいじょう〕帝大で行われた研究会で、
穂積八束〔ほづみやつか〕・上杉慎吉らの天皇主権説を
明確に否定するとともに、国家そのものを超個人的
生命体(“大生命”としての“普遍我”)とみる筧克彦
〔かけいかつひこ〕の汎神論的全体主義をも切って捨てた。
そして…国家法人説(天皇機関説)によらず
に立憲主義と個人の自由権を確保する道筋を示し…たのであった
(その論旨は、尾高『実定法秩序論』
[岩波書店、1942年]において展開された)」「彼〔尾高〕によれば、国家とは、
その『道徳面に滲〔にじ〕み出るエトス』や
『政治面に湧き出るパトス』を
『法のロゴスによって組織化した法共同体』である。
それは、多様な人間目的を総合的に実現することを
任務とする『作業共同体』として組織されており、
決して血縁共同体ではない」
「この『国家そのもの』の内部構造は
、『国家における全体』(国家の意味や理念)と
『国家における部分』(国民)
の関係性であり、部分としての国民の活動は変転しても、
意味的全体性が不変であるために国家の自己同一性が保たれる。統治権の主体は、具体的な君主でも抽象的な国家法人でもなく、
この『国家における全体』である。他方、『国家における部分』については、
おのおの活力ある『自己経営』が可能であって
はじめて『全体』の利益に資することができるの
だから、『自由権』が保障されなくてはならない」
「実在国家の統治機能が行われるためには、
『国家における全体』の体現者が必要になる。
その際、体現者とは『理念としての全体』の現実態
であり、逆に『全体の体現者』の理念態が『全体』である、
という関係にあるため、この『体現』は『代表』とは
概念上区別される。代表とは、全体の『部分』たる者が、
全体に代わって行為することであるが、
全体の体現者は『部分』ではないからである。こうした『全体の体現者』を用意する上で
最も有利なのは、立憲君主制である。
現実の支配者ではなく、『理念態としての君位』
において、現実政治を統制する国家の理念――
これが後にいう『政治の矩(のり)』『ノモス』
である――が体現されるからである。これに対して、民主制における体現者は
『全国民(国民全体)』であるが、
その存立にはいろいろとフィクショナルな
工夫が必要になる」(〔〕内は引用者)
―この種の文章を読み慣れていないと、
石川氏の整理は少し難解に感じられるかも知れない。尾高の議論については、
改めて本人が平易に記した文章を紹介しよう。