最近、「コンテンツ」という言葉を使うのに、躊躇を感じています。
SF作家・豊田有恒氏の『「宇宙戦艦ヤマト」の真実』(祥伝社新書)を読んだからです。
豊田氏はTVアニメ創成期に『鉄腕アトム』『エイトマン』『スーパージェッター』など数多くの脚本を手掛け、『宇宙戦艦ヤマト』ではSF設定を担当、同書はその体験談を綴ったものです。
そして同書の最後の方で、豊田氏は30年ほど前、広告代理店の人間が「コンテンツ」という単語を連発するのに、限りない違和感を覚えたとして、次のように書いています。
こちらも一時期は、欧米SFの翻訳家として食べていたから、コンテンツ(contents)の意味は知っている。もちろん中味という意味だが、これほど連発される場面に出くわしたのは初めてだった。今では当たり前だが、妙に新鮮な違和感を覚えたのもたしかである。缶詰ではあるまいし、中味とは何事かと反発したものだ。ぼくたち小説家は、作品を書いているつもりだが、受け皿となる相手は中味としか思っていないらしいのだ。
こちらが古いのかもしれないが、今もコンテンツと言われると、かなり免疫ができてはいるものの、やはり違和感を抱かざるをえない。個々のクリエイターの創造性が、コンテンツという単語からは感じ取れないのだ。缶詰の中味なら、誰が製造しても同じものに仕上がるだろうが、クリエイティブな仕事では、良い悪いは別にしても、同じ作品ができあがることはありえない。このあたりから、どうやら、創造性に関する評価が、狂いはじめたらしい。
豊田氏は「作家と編集者の共同作業で、作品を生み出していくという伝統は、長いあいだ守られてきたが、コンテンツという言葉が広まるのと軌を一にするかのように、すたれはじめた」とも書いています。
首切りを「リストラ」と言い換えたのと同じですね。
何か言葉がカタカナ語に置き換えられたら、知らないうちに、大事な価値観が変えられていないかと疑う必要があるようです。