ある憲法学者いわく、
「近代立憲主義は、人の生きる空間を公共のそれと
私的なそれとに区分し、後者において各個人の自律的な
生を保障するとともに、前者において公共の問題に関する
理性的な審議の可能性を追求しようとしてきた。
こうした生活空間の切りわけは決して自然な、
人間の本性にもとづくものではない。
各世代の人々による意図的な努力の結果として
かろうじて維持されるものである。
現に、歴史的に見て、
こうした生活空間を享受できた人々は圧倒的に少数である。
…ルソーによれば、人は社会契約を結び国家を設立することで、
はじめて未開の状態を脱して人hommeとなる
(『社会契約論ジュネーヴ草稿』第1篇第2章)。
国家の基本を定める憲法は、
われわれがいかなる人になろうとするかを指し示す文書であり、
だからこそ、あらゆる世代の国民は
憲法についてあらためて考えるべきでもある。
憲法について語るとき、
我々は、自分たちがどのような人間であろうとするかを語る。
それは全人格を傾けて語るべき対象である。
その時々の政党政治の便宜や
流行の思潮にもとづいて語るべき対象ではない」と。
ルソー云々はともかく、
憲法が「あらゆる世代の国民」の
「全人格」的な課題である事実に目を向けさせる、
傾聴すべき指摘だろう。
まさに憲法は、決して一部の専門家だけの
独占物であってはならない、
という立場の表明以外の何ものでもない。
「近代立憲主義」が「各世代の人々による意図的な
努力の結果としてかろうじて維持されるものである」
以上、それは当然とも言える。
これは誰あろう、
今や憲法学界の第一人者とも見られている、
長谷部恭男教授の発言だ
(『憲法学のフロンティア』平成11年)。
ところが、
同じ長谷部氏の近刊『憲法の良識』(平成30年)では、
以下のように述べられている。
「ふつうの人たちにとって、
憲法なんて興味も関心もないのが正常な姿だと私は思います。
…どこの国でも憲法や安全保障の問題が、
そうそう人びとの関心を引きつけているわけではない。
それに、一般市民が憲法のことをしょっちゅう考えて
いなければいけない社会は、どちらかといえば不幸な
社会だと思います」と。
先ほどの発言とは随分トーンが違う。
むしろ反転しているようにさえ見える。
それとも、
「各世代の人々による意図的な努力」には、
「ふつうの人たち」「一般市民」
は予め除外されるのだろうか。
長谷部氏の立場の変更は、学問的な発展か。
それとも、堕落又はニヒリズムへの後退なのか。