書かずにおいていることもありますし、
自分の言いたいことを全部書きようがありませんが、
ゴー宣道場を「マイルド化」するほうがいい、
という感覚の意見を先日はじめて聞いたとき、
「ゴー宣道場のほうがおかしいのだから、
もっと身のまわりの世間に妥協して、
世渡りを優先できる場にしたほうがいい、
偏見を持つ側の感覚は正しいのだ」
という意味にしかとれませんでした。
それで、世間についての記事を書いたのですが
ゴー宣道場の参加者の様子を見てそんな狂信的に感じたのか?
この場所は異様だと思うようなことでもあったのか?
そんな風に自分の周りの世間との妥協を望みながら、
「個人」として立憲主義を目指すことと整合性がとれるのか?
不思議に思いました。
学者の方が立場や派閥に縛られているのは理解はできますが、
それでも議論の場に出られないと判断される方には、
十人十色の背景やお考えがあってのことではないのでしょうか。
すべて「小林よしのり」や「ゴー宣道場」のせい?
それとも、そこまで全体の学問的態度が劣化しているという話
なんでしょうか?
もちろん、自分の意見は護憲から変わらないという方もいて、
改憲派の場所には出ないと考える方はいらっしゃるでしょう、
専門家のお話をお聞きしたい側からすれば残念なことだけど、
そういう判断も当然あり得るだろうなと思います。
でもそれを当然のように「小林よしのり」「ゴー宣道場」のせい
にして、立憲的改憲の障害になるという目で見ているのは、
それこそが、とても大きな偏見ではないのでしょうか。
もちろん、「マイルド」で、摩擦なく、
突出した影響力とそれに伴う反作用が起きるでもなく、
ゆるやかに立憲的改憲論が浸透してゆく、
そのような場が作られるのなら応援したいと思います。