昨日のゴー宣道場は、あまりにも熱く濃密で、
1部も2部もあっという間に時間がたち、
まだまだ足りない! と思いました。
特に堀辺先生が強い口調でおっしゃった、
在日米軍が駐留しているということは、つまり、
「日本には、主権がないということなんです」
という言葉には、ガンと頭を叩かれるようでした。
どのメディアを眺めても、視聴者に嫌われないための、
「面倒臭くなく、感じの良い、ニュース解説」ばかりの今。
ここまではっきりと真実を言い切る場所は、
ゴー宣道場のほかに存在しないのではないかと
改めて思った瞬間です。
1部の後半で、切通先生から「国家と国民」についての
お話しがありました。
議論の展開があるので、割り込んで質問できなかった
のですが、ふと、
「そもそも『国民』って、なんだろう?
正しい国民の姿って、どんなだろう?」
正しい国民の姿って、どんなだろう?」
という疑問が浮かんでいました。
「個人が立脚していなければ、国家は成り立たない」
「なんとなくぼんやりと『国民』になっていくのではない、
国民というものは、国家に参加して、作られていかなければ
ならないものだ」
ならないものだ」
堀辺先生、小林先生からもお話しがあり、
このときはじめて、『新戦争論1』のなかの
第14章「国民の手本、少女学徒隊」
このタイトルに込められた意味が、
深く胸に入ってくる感覚を得ました。
「私たちの卒業証書は、靖国神社の入場券になる」
と喜んだ、ひめゆり学徒隊の少女たち。
信子と貞子のふたりが、制服に着替えて、髪を整え、
自決にむかうシーン。
ここに『感動』を覚えて胸にその重みを響かせる人。
単純に「かわいそうな犠牲者」と受け取り、
ぼんやりとした反戦平和を思う人。
『死んだら終わりだよ、命は大事にしよう』
と言っては、
「金が正義」とばかりに私利私欲を貪り、
「金が正義」とばかりに私利私欲を貪り、
呆然としたまま、ありもしない「自分探し」に戯れ、
甘えたまま生きている現代の日本人は、
少女学徒隊のような『国民』とは正反対の存在かも
しれません。
しれません。
国民として国家に参加し、決意し、立脚する、
という誰かの姿すら見ることのないまま、
ふわふわと存在しつづけている――
これでは独裁者の思うツボでしょう。
国民になる、ということ。
機会があれば深く話してみたいテーマです。
という誰かの姿すら見ることのないまま、
ふわふわと存在しつづけている――
これでは独裁者の思うツボでしょう。
国民になる、ということ。
機会があれば深く話してみたいテーマです。