およそ2年半ぶりに福島県を訪れた。
この3月に、福島第一原発付近を縦断する常磐自動車道、
常磐富岡ICー浪江ICが開通したばかりだ。
原発周辺の帰宅困難区域を車で走ったが、
荒廃した町のいたるところにあるバリケードには、
ものものしい防護服に身を包む警備員の姿、
走る車はダンプカーなど工事車両と、パトカー。
うっかりガソリンが残り少ないままこの区域に突入してしまい、
スタンドはたくさんあっても当然すべて閉鎖されている状況、
エンプティマークにひやひやしながら走り抜けることになった。
いわき市から北上して、広野町、楢葉町、大熊町、双葉町、
そして浪江町へと抜けて、福島県内でもっとも被害が大きかった
請戸地区(死者184名)へと向かった。
第一原発から10キロ圏内、約400世帯のこの町は壊滅し、
だだっぴろい荒地となっている。
この荒地の真ん中に、ぽつんと残された建物がある。
「浪江町立請戸小学校」だ。
この小学校は、甚大な被害を受けた請戸地区のなかで、
奇跡的に児童77人を全員無事避難させることができた。
「わたしたちのまち請戸」――この言葉が胸にずんと重く響く。
請戸小学校では2011年3月11日当日、卒業式が行われていた。
体育館は今でも発災当日のままだ。
この4年間の「請戸小学校」の報道写真を検索すると、
どれもこれも私が撮ったこの写真と同じである。
このままの状態で放置されつづけているのだ。
二階建ての校舎は、1年生・2年生・3年生の教室だった一階部分を
波で突き破られている。
この廃墟と化した校舎の隣りは、がれき置き場となっており、
コンクリートや鉄片、ゴム類などが区分けして積み上げられ、
きょうも作業が行われている。
2階、5年生の教室の窓からは、二台のミシンごしに、
第一原発の収束作業のクレーンが見えている。
教室ベランダから南を臨む。
画面右奥の高台に見えているクレーンが第一原発。
二階の教室の黒板には、寄せ書きが残されている。
復興、救助のためにこの地を訪れた自衛隊員や地元民、
ボランティア、そして児童たちによって書き込まれたもののようだ。
教室には、いまもリコーダーやお道具箱などが残されている。
思い出のつまった「ぼくのランドセル」を、子供たちは、
ここに置き去りにするしかない。
「わたしたちのまち請戸」。
この場所に立ち、この空気を吸い、そして、教室の窓から見える、
事故を起こした第一原発のクレーンを視界に入れて、
それでもまだ「原発再稼働」を口にする人がいるとしたら、
どう考えても、人間性が壊れているとしか思えない。
発災当初は、多くの地元の人達から話を聞くうちに、
「そうは言っても原発のおかげで生活が成り立っていたのだから、
次のステップまで、ひとまずは稼働してもらえないと、困ってしまう」
という声があり、うーん、と考え込むこともあった。
しかし、この国の「再稼働」=「ずるずるとそのまま永久稼働」である。
やはり、
「これでもまだ、『原発再稼働』を口にする人は、
人間性が壊れているとしか、思えない」。
私は、こうはっきりと表明しておきたい。