去る3月11日、関西ゴー宣道場が盛況のうちに。今回は曽我部先生をお呼びして、前回よりもさらに広く深く専門的な話にも及んだが、参加者の皆さんがここ最近のゴー宣の議論をフォローしているせいか、視線だけでなく、議論の中に魂がグイグイ入ってこられているような集中力とそこからくる「引力」みたいなものに、登壇している側が引っ張られるような感覚すらあった。
議論の内容としては、戦後すぐの「憲法を受け入れるのか否か」というイデオロギー的な対立軸から、権力のハードルとなるような憲法規定を見直す(9条、ねじれ国会)というフェーズに移行し、さらには、権力の均衡を回復するようなプラクティカルな改憲への昇華を提案されていた。権力のハードルになるべきプラクティカルな改憲という構想は、立憲的改憲とも通じる発想だ。
憲法典だけでなく、法律や規則も含めた統治の「仕組み」を見直すという発想は、再度うなずいた。
実は、次の日も曽我部先生とは別件の対談の仕事で、翌朝もお会いして、二人とも寝てなかったので、目の下真っ黒で仕事をこなした。曽我部先生の、やわらかで実直でありながらも芯がある竹のような思考に、今後の憲法論議も是非リードしていただきたいと心から願う想いである。
さて、次回!は
慶応義塾大学の山元一(やまもとはじめ)先生の登壇である。
慶応には山本龍彦教授もいるため、区別するためにも山元先生は「やまげんせんせい」と呼ばれたりしている。
先生は、フランス憲法の専門家でもあるが、各国の憲法裁判所の体系的な研究をいち早くされ、L.ファヴォルーの「憲法裁判所」という本を訳されたり、フランス憲法院の補佐機構についての研究など、グローバルスタンダードとしての憲法裁判所を積極的に研究・発信されている。
また、安保法制に際しても、独自の憲法観で多くの発信をされ、物議もかもした(!)しかし、憲法9条という特殊性については、興味深い指摘もある。
「通常の法解釈の場合には、いくら政治的社会的選好や価値判断が重要な影響を与えるといってもおのずと限度があり、裁判所で聞き入れられる可能性のある解釈を中心に、一定の幅の中で解釈論が闘わされることが一般的です。
この場合には、法律専門家によって示される学理解釈と単なる素人的解釈との区別を、裁判官・検察官・弁護士・法律学者らによって構成される法律家共同体の共通理解に照らして判別することが可能です。
これに対して、<憲法9条解釈というフィールド>においては、このような法律家共同体の共通理解による枠づけがほとんど機能しません。
というのも、違憲判断を求めて自衛隊の合憲性問題について裁判の場で争うことは今日ではもはや現実的でないため、憲法9条解釈の名宛人としては、裁判所よりもむしろ政党・政治団体や市民運動などのアクターが念頭に置かれているからです。
将来に向けて自衛隊の装備や活動範囲の一層の拡大を阻止し、できればその縮小・解体を実現することを主な目的として、政党や市民運動をエンパワーメントし、自衛隊からあえて法的正当性を奪う自衛隊違憲論が、憲法学者の間で今日なお根強いのはそのためです。
さらに、自衛隊の合憲性をめぐる議論は、いきおい政治的ストラテジーの色彩を帯びたものとなりがちです。政府の安保法制懇に対抗して作られた国民安保法制懇の報告書(2014年9月29日)では、従来、自衛隊違憲論に立っていた著名・有力な憲法学者が合憲論に転換しました。これは、それらの憲法学者がそのように主張した方が現在の政府の憲法解釈変更により有効に対抗できると政治的に判断したからだ、と考えられます。
<憲法9条解釈というフィールド>で示される憲法解釈は、憲法学者の政治的社会的選好や価値判断、さらにはその時々の政治状況に対応した政治的ストラテジーが露骨に示される場であり、通常の法律問題についての専門家としての学理的見解とはかなり趣を異にするものであることがわかります。
また、憲法学者となる動機として、憲法9条の掲げる崇高な理念に心打たれてその道に入った者も決して珍しくないことも付け加えておくべきでしょう。
憲法学者の見解について「9割の憲法学者が……」というようなメディアの報道が目につきます。メディアを通じて情報を得る批判的精神を備えた市民が理性的判断をおこなうためには、このような<憲法9条解釈というフィールド>のもつ特殊性をよく認識した上で報道を受け止めるリテラシーをもつことが、大変重要になってきます。」
https://synodos.jp/politics/14844
(日経BP:http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/16/071000146/072800006/?P=2)
さらに、先日お会いしたときは、立憲主義を貫徹するためには憲法裁判所が必要である点や、改憲の議論として憲法24条と性の多様性に向き合うべきだといった点において、非常に立憲的改憲にも有益なアドバイスがもらえそうだ。
9条を論じるとき、どのようなバイアスやしがらみがあるのか、そして、憲法裁判所が世界でどのように運用され、日本でこれを本当に実現し社会に根付かせるためにはどのようにしたらいいのか、ゼロから構想することのワクワク感は何よりも優越するはずだ。
やまげん先生に、聞いてみよう!!
最後になったが、国内政治がひどいことになっている。日本には善意なんかあったのかと思うほどひどい、これがまかり通ってしまったら、法や政治は死んだといってもいい。市民社会が成り立たないではないか。
しかし、政治部や記者の人と話していても、安倍政権の鈍感力が異常だ。政権まわりや党幹部も佐川の喚問なんか本気で必要ないと思っているし、麻生の辞任??必要なわけないに決まってるだろ、こんな感覚である。本来なら一発アウトで調査チームを作って関係者や責任のありそうな人間は総取替のはずである。
しかし、安倍政権にはそのような常識はない。しかも、この数年で、彼らは客観的な目を忘れてしまった。そういう人々が生き残るには外部の目を入れないことに徹することになる。「これで安倍は詰んだ」というのは、それは本来そうなはずなのだが、安倍政権には通用しないあまりに楽観的な見方だ。
とにかく真実の究明と責任の所在の明確化という「あたりまえのことをあたりまえに」遂行し、きたる民意の表明でひっくり返すしかない。
憲法の議論はスキャンダルとは関係なく存在する。というより、こういうその場その場の政局で憲法を棚上げにしてきたのではなかったか。継続的に議論すること、骨太の憲法論議を安定的にし続けること、これも、できそうでできなかった「あたりまえのことをあたりまえに」である。