わしが人を批判するときは、あくまでも現時点での評価だ。
わしが批判したウーマン村本も、三浦瑠麗も、室井佑月も、
まだ成長するだろうし、考えも変わるだろう。
1ミリも変わらぬ脳みそになったら、老人になったという
ことだ。
三浦瑠麗はもっとリベラルになれば、即わしは評価するし、
室井佑月はもっとナショナリズム(国民主義)を客観的に
理解して欲しいと思う。
客観的に理解しないとネトウヨになる。
人の考えは変わる。
わしは男尊女卑だったが、それでは国家が滅ぶと見えて、
考えを変えた。
今では女性の地位をもっと引き上げねばならないと思っている。
わしの考えが変わらないのは、アメリカは侵略戦争をする
という見方である。
小学生でベトナム戦争を侵略戦争だと批判して以来、
この考えは変わらなかったが、イラク戦争でとうとう確信
してしまった。
人の評価は死んでからしか確定できない。
いや、時代が変われば、さらに故人の評価が変わり続ける
場合だってある。だから坂本龍馬が歴史教科書から消え
ようとしているのだろう。
人間の評価はあくまでも現時点の評価である。
人間を評価するときに、キャリアは大事だろう。
「何を成してきた人物か?」という視点だ。
ビートたけし・松本人志・爆笑問題は、社会批評の質
はぬきにしても、「成してきた業績」は大きいと思う。
ウーマン村本は、いっぺんくらいお笑いでてっぺんとった
方がいいと思う。社会批評はそのあとでいい。
わしがそれなりに影響力があるのは、何を成してきたか
を知る人々が多いからだろう。
『東大一直線』は100万部以上売れたし、
『おぼっちゃまくん』はアニメで数年間、18%以上の
視聴率を取ったし、
『ゴーマニズム宣言』シリーズは2000万部は売れている
だろう。
有名無名を問わず、「何を成してきた人か?」が分から
ない者がえらそうに何かを言っていても、信用ならない。
言葉の表面だけなら何とでも言える。
匿名でえらそうに何か言う奴に至っては、もはや存在
しないも同然だ。
「何を成してきた人か?」と問えば終わってしまう。
わしが評価しない人物はリスクを負わない人物である。
国民の安寧を保障する国家を維持し、民主制を維持する
ためには、実はリスクを覚悟しなければならないのだが、
それが見えていない人物は子供である。
それが見えるようになって初めて大人になるのだ。