日本の政党政治の成り立ちについて、
ただいま少しかじり中。
明治憲法は、幕府的存在の出現を防止することを
目的とした、比較的厳格な権力分立制だった。
と、『日本の近代とは何であったか』(三谷太一郎著)に
書かれています。
それはつまり、
「立法と行政との両機能を連結する政党内閣を
本来排除する志向を持って」いた、とも。
ところが、この権力分立制は結構な問題点を抱えていました。
天皇は政治的な役割を担う存在ではありません。
内閣総理大臣も今のような地位になく、閣僚への統制力もない。
最終的に権力を統合する制度的な主体を欠いていた、というのです。
そのため、
「憲法を統治の手段として有効に作動させるために、
何等かの幕府的存在の役割を果たしうる
非制度的な主体の存在を前提としなければならなかった」わけです。
その最初の存在は「藩閥」。
ところが藩閥では衆議院を掌握できなかった。
一方の反藩閥勢力は、政党として地方に拠点を据え、
衆院選挙に勝てる仕組みをつくるようになった。
けれども明治憲法下では、衆議院の多数が
権力の獲得を保障しない。
というわけで、藩閥と政党は互いに接近。
「政党は藩閥化し、また藩閥は政党化」し、
明治33年、伊藤博文は立憲政友会の初代総裁になりました。
権力分立=反政党的な統治形態を目指したがゆえに、
政党政治が生まれてきたという、パラドックス。
「高度に権力分立的な憲法は、それだけでは国家を統治する
有効な道具とはなりえませんでした」
と、三谷氏は書いています。
それから政党政治が終焉を迎え、「立憲的独裁」が
政治学者の蝋山正道によって提唱される…わけですが、
このあたりになると頭パンクの予感がしましたので、
今日はここまで。