以前このブログでも、朝日新聞のWEBRONZAでも取り上げたベネズエラ人指揮者のグスターヴォドゥダメルの権力との闘い。
このとき、ドゥダメルが対峙した最高権力者であるマドゥロ大統領がドゥダメルに投げかけた”welcome to politics”という言葉。この言葉が、今まさに自分の最も深いところにえぐるように投げ込まれている。
私が政治の世界と接点を持ち始めたのは2015年の安保法制である。そのときは、私ともう一人の弁護士と二人でタッグを組んで、当時の野党の衆参の議員のところを周りに回った。委員会での質問や法案の対案づくりに心血を注いだ。
しかし、安保法制は成立した。
このとき痛烈に感じた。社会は分断している。多くの人々は、自己の承認欲求を権力に乗せるという自己同一化によるエクスタシーを感じるからこそ政権を応援し、それを自称「リベラル」はノーガードで批判した。いったい何をやっているのか。これでは勝てない。そして、常に負けたことを自虐的に
これは、共謀罪でも、同じことが繰り返された。
これでは勝てないのだ。
人々は、分断の先に、自己同一化させるのに最もきもちのいい器を見つけた「ファースト」である。内向的な価値を語ること
しかし、真に普遍的な価値は開かれている。時代、場所、人種、年齢、性別、関係ない、すべてに開かれているし討議可能であるし、何より、それらに寛容でそれらを包摂する。
今が我慢のときだ。普遍的な価値を訴え続け、社会を構築しなければならない。
そのためには、普遍的な価値についての共通言語をもつあらゆる人々と連帯し、その価値の輪が拡張する生態系を作り上げることが王道かつ近道であると考えていた。
そのために、様々な人と会い、話し、議論し、対話し、熟議し、ときには否定と再生を繰り返し、この輪を作り上げることに邁進していた。
しかし、今回、自身の誤解を招く行動で、自分自身が邁進しようとしていたことを自分自身で後退させるようなことをしてしまった。矛盾を生ずる行動であったと思う。この点は、自身を厳しく律さねばならない。
しかし、私の自分らしい「善き生」はここにある。消失しそうな価値を語り、微小でもその価値を実現するために具体的な法律や政策という「かたち」にしていく、そんな「公」に命をかけたい。そこに身を投じるべきであるという確信もある。どこから石が飛んできたとしても、どんな壁が立ちはだかろうともそのことに奉じる。
この決意を表現する最初の(ある種最後になるかもしれないという覚悟もある)場が、10月8日のゴー宣道場である。
このような場を提供していただいた師範の皆様、門弟やスタッフの皆様、そして、ゴー宣道場を応援してくださる国民の皆様、本当にありがとうござます。
このような心意気の総体に応えられるようでなければ、男ではない。
是非、私の一世一代の場をご覧いただきたい。