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切通理作
2017.8.24 01:15

つい顔色を窺ってしまう


   
   
ライジングの木蘭さんの文章、いろいろ考えさせられました。

 メディアリテラシーという言葉がありますが、この映像はこのままの意味ではなく、権力者に都合のいい、こんなメッセージが隠されているんだよ、という指摘をした方が、映画を見たりするときにも、頭がよく思われることがあると思います(もちろんナチスのプロバガンダ映画など、明確にそういう意図で作られているものもあり、いまになってそこに引っかかってしまう人もいるわけですが)。

 

 とくにネットなんかは、似非リテラシー風に「頭がよく見られたいバカ」が反応しやすい場所なのでしょう。彼らはごく当たり前の情緒や機微を汲み取る感性が極端に乏しいくせに、狙ってもいない意図を汲み取ろうとすることには異様なまでに執心します。しかも、それを真実と思い込むのです。

 

 問題なのは、そんな風潮に引っ張られて「そう見ないといけないのかな」と辺りを窺うような態度になってしまうことです。中には、初めから知っていたという態度でふるまう者もいるでしょう。

 

 それから、ジェンダーの問題もあります。「多くの女性が反発している」と聞くと、男性の自分は「そこまで考えていなかった僕は、無神経だったのだろうか」と反射的に思ってしまいます。

 木蘭さんという「女性」が、CMの中の男性が特に問題行動をしているとは思えないという「お墨付き」を与えてくれることで、やっと安心できるという心性が、僕にもないとは言えません。

 

 最近は、秋元康の詞が女性差別的だと言われる問題もありました(リテラの記事に詳しいです)。電車の中でスカートを切られる被害に遭った女の子が、自分はそういうことで悲鳴なんか上げない……と独白するのですが、これを「被害に声を上げる多くの女性を否定している」というのです。

 

 僕はその詞を読み、歌も聴きましたが、いまの自分は理不尽なことに声を上げることはできないけれど、いつか強くなってやる・・・という気持ちとして受け止めました。そしてそう思っている十代の子も、いっぱいいると思ったのです。

 

 しかしそこで「声もあげられない」と書くと、表現として弱くなってしまいます。「悲鳴なんてあげない」と、いまの自分の弱さすらバネにしていきたいと思う心情の機微が、この詞のキモだと思うのです。

 

 しかし僕は、それが現実の被害に声を上げている人を否定していることになり、実際その立場の人がこの詞に抗議の意を表していると聞くと、ちょっとたじろいでしまうところがあります。

 

 たしかに、ひとつの例として歌われていたとしても、それが「今の時代の普通の少女」の気分として浸透してしまえば「いま声を上げるのは野暮」という、逆向きの同調圧力を生んでしまうのではないかと、恐怖を感じる人がいるのも、わからなくもありません。

 

 しかし「痴漢や傷害に対して助けを求めたり、抵抗するための『悲鳴』を上げないことこそが、襲撃者に対して勝つことであり、積極的にとるべき態度として書かれている」(リテラより)とまで言えるのだろうかと。

 

 この例も、木蘭さんはどう思うのか、聞いてみたい気がしてきました。

切通理作

昭和39年、東京都生まれ。和光大学卒業。文化批評、エッセイを主に手がける。
『宮崎駿の<世界>』(ちくま新書)で第24回サントリー学芸賞受賞。著書に『サンタ服を着た女の子ーときめきクリスマス論』(白水社)、『失恋論』(角川学芸出版)、『山田洋次の<世界>』(ちくま新著)、『ポップカルチャー 若者の世紀』(廣済堂出版)、『特撮黙示録』(太田出版)、『ある朝、セカイは死んでいた』(文藝春秋)、『地球はウルトラマンの星』(ソニー・マガジンズ)、『お前がセカイを殺したいなら』(フィルムアート社)、『怪獣使いと少年 ウルトラマンの作家たち』(宝島社)、『本多猪四郎 無冠の巨匠』『怪獣少年の〈復讐〉~70年代怪獣ブームの光と影』(洋泉社)など。

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