昨日の東京新聞で、ウルトラマンやスーパー戦隊、宇宙刑事などをはじめ、テレビで無数のヒーロー番組を手掛けた脚本家・上原正三さんが書いた自伝的小説『キジムナーkids』の書評を書かせて頂きました。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/book/shohyo/list/CK2017082002000182.html
この作品は、小説形式で、現在80歳になる上原さんが少年時代を振り返ったもので、戦後すぐの沖縄が当時の子どもの目線で描かれた、大変貴重な作品です。
敗戦の翌年、疎開先から帰ってきた沖縄は、焼け野原と化していました。生まれて初めて見るシロンボー(白人)、クロンボー(黒人)の兵隊たちによって、頭から殺虫剤のDDTを思いっきり吹きつけられて、2年ぶりに沖縄の土を踏んだ主人公の少年・ハナー(「鼻ったれ」の意)。
沖縄の子どもたちは、疎開先の熊本から、靴をはいて帰ったハナーを、はじめは「ヤマトゥ」とからかっていじめます。沖縄の子どもたちは、裸足が当たり前でした。
しかし、やがて友情が芽生え、「キジムナーkids」と呼ばれた5人の冒険が始まっていきます。
そしてハナーは気付いていきます。
何もないその場所は、「夢と冒険の国」であったことに。
たしかに、後にニュースになっていくような、米兵による女性への暴行や、地位協定によるその行為への不問などにつながる問題は、当時既に起きていました。米軍が乱暴し殺した女性の死体が、ゴミと一緒に崖の上から放り捨てられるのをハナーが見るというくだりもあります。警察官であるハナーの父は、それに対して何もできない無力を噛みしめます。
ただ基本は当時アメリカも戦争に疲れていたので、沖縄の民を細かく監視している余裕がなかったといいます。もちろん日本本土も、沖縄ほどではないにせよ、痛手を受けています。
この時期はある意味どこからの支配も受けず、【真空地帯】の自由が成立していました。
しかし、その代わり何もなかった。特に、食糧がありません。
子どもたちが夢見るもの、それはまず「食べたい」ということ。
そこで「戦果」という言葉が流行ります。
食糧や衣類、住宅建材といった、米軍がもたらす豊富な軍需物資を盗み出すのです。
それは、沖縄の女性をパンパンとして連れ歩く米兵の車をわざとエンコさせて、子どもたちみんなで素知らぬ顔で手伝いをして、お駄賃代わりに食べ物をせしめる・・・というような可愛いレベルから、米軍基地に忍び込んで、一歩間違えれば銃殺される危機をくぐり抜けるレベルまで、さまざま。
つまり、生きるために盗みやかっぱらいが横行。
それが、この作品では、全然否定的なことして描かれてないんです。
そりゃそうですよね。昨日まで自分たちを皆殺しにしようとしていたシロンボーやクロンボーたちですよ。従うフリして、いかにせしめてやろうか、それを陰で「戦果」と呼ぶのは、わかる気がします。
それどころか、自家消費のみならず、奪った物資を横流しし、貿易商として財をなしたツワモノもおり、戦後の沖縄経済の礎のひとつとなったというのだから驚きです。
なんかここまで来ると、痛快な気がします。
作者の上原さん本人も、「煙草は小学生の時さんざん吸ったから、それ以後いままで吸ってません」と言っていますが、ガジュマルの樹の上に「戦果」を隠す秘密基地を作る「キジムナーkids」たちが、米兵からくすねた煙草をまわしのみする描写があります。
カッコつけの非行という意識より、そんなものでも口に入れたかったというのもあったのでしょう。
「戦果ならよか」
驚くべきは、おまわりさんでも、子どもから煙草はとりあげつつも、それをどうやって手に入れたのかは自分の段階でもみ消し、不問に伏すのです。
この作品では、パンパンになった女性でさえ、それでお金を得るというのは米兵からの「戦果」であるとして、必ずしも悲劇のヒロインとして描かれていません。
もちろんそうせざるを得ない状況は過酷に違いないのですが、その中でもしたたかに生き抜く彼女が、沖縄で生き残った孤児たちが入れる施設を作りたいという夢を持つことを肯定しているのです。
僕は上原さんが描くヒーロー番組で育ってきました。上原さんの描くドラマには、異空間に入って戦うものがあります。そこはヒーローにとっては罠の仕掛けられた危険な空間ですが、子どもたちにとっては、無心に戯れる空間でもあったのです。外の時間に帰りたくないと思うような。
そこには、現実の【真空地帯】を経験した上原さんならではの、物ごとを単純な善悪、あるいはポジティブとネガティブに分けてしまわない価値観がうかがえます。
1平方メートル辺り6発の砲弾が撃ち込まれた沖縄には、ガレキや壊れた車両が放置され、埋葬の手が回らない野ざらしの死体が見えています。
ハナーが出会った人々は、大人も子どもも、「カンボーヌクイヌクシー」(艦砲射撃の食い残し=沖縄線の生き残りという意)という意識を持っています。
非常に「死」に近い存在なのです。
彼らは、多かれ少なかれ死者に対しての申しわけなさを持っています。
それはハナーの家族も同じです。彼の父は警察署長として沖縄に残り、一人でも多くの人間を避難させようと最前線に立ち、九死に一生を得ました。
しかし疎開した側の家族は、沖縄に残った人たちへの申しわけなさの感情を持っています。
ハナーの姉は、同期の女学生の友達がひめゆり部隊で自決したことに対して、文字通り後ろ髪引かれる思いでいます。
そして、ハナーの仲間「キジムナーkids」の中にも、親兄弟が目の前で機銃掃射で殺された子もいれば、米軍を恐れて集団自決した集落で、たった一人生き残った子もいます。
この「集団自決」の描写が、実は僕がこの本でいちばん驚いたところです。
集団自決が軍の強制であったかなかったか、ということ以前に、僕は「集団自決」というものに対して、アメリカ軍がすぐそこに迫っている状況で、たとえば壕の中や崖の上で手榴弾のピンを引く・・・というようなイメージを持っているだけでした。
しかしここには、まったく想像していなかった集団自決のかたちがあります。そしてこれこそが、ある朝、それまでの日常も、人間関係も、世界がすべてなくなってしまうという、どんなSFでも描きだせないような時空であり、「ああ、沖縄の人たちがいまでも感じている【銃後の現実】っていうのはこういうことだったのだ」という一端が初めて体感できました。
そしてそれは、日本がもし本土決戦をしていたら、日本人全員が必ず受け止めていたはずのものであろうことも、了解できました。
この箇所は、ぜひ皆さんが直接本の中の記述からたしかめてください。
この本は、ぜひ小林よしのりさんにも読んでほしいです。『戦争論』を読んだ後もそう思いましたが、「この本をスルーしたままで、戦争についてうんぬんするのは、どうなんだろう」とこれから思い続けるであろう本です。