『民主主義という病い』のフレンチの章をバブルの後遺症と
勘ちがいしている者がいるのではなかろうか?
小林よしのりの作品を知る者であれば、『おぼっちゃまくん』
の誕生秘話を知っているだろう。
『おぼっちゃまくん』はバブル時代への復讐として始めた
作品なのだ。
バブル時代には、若者が「女と車とファッション」にしか
興味を抱かなくなった。
そのどれも描けない当時のわしは、何を描いてもヒットしなく
なった。
バブルと空想平和主義に埋没した世相を風刺するために
描き始めたのが、『誅(まるちゅう)天罰研究会』で、
浮かれた若者に天罰を下す主人公を描いたのだが、人気投票が
ビリになり、打ち切られた。
その後もヒットが出ず、某出版社の編集者に「あなたの時代は
終わりだ」と宣告された、それがバブルの思い出である。
そこから時代を憎むのではなく、徹底した笑いで皮肉るために
『おぼっちゃまくん』を描き始め、大ヒットになったのだ。
そしてバブルがはじけ、『ゴーマニズム宣言』の時代に繋がる。
わしはバブルの恩恵を受けていない。
バブルの時代を不遇に過ごしたのだ。
わしは実力のみで時代と格闘し、勝ち残ってきた。
『民主主義という病い』のフレンチの章は、格差社会に向けた
皮肉として、見せびらかすように描いたのだ。
これは貧困層にも、富裕層にも、両方に向けて、真の強者とは
何かを突きつける仕掛けである。
民主主義の理念である「自由」「平等」「同胞愛」を意識させる
装置として、あのフレンチの章を挟み込んでいる。
なぜ舛添要一になら集団リンチを行い、石原慎太郎にはそれを
しなかったのか?
その解答があのフレンチの章に込められている。