『週刊ポスト』(7月1日号)に「靖国神社の存在意義にも関わる?
徳川宮司『明治維新という過ち』発言の波紋」という記事が載って
いる。
共同通信が配信した、靖国神社の徳川康久宮司の戊辰戦争を巡る以下の
ような発言などについて、賛否の意見を取り上げた記事だ。
徳川宮司いわく、
「私は賊軍、官軍ではなく、東軍、西軍と言っている。
幕府軍や会津軍も日本のことを考えていた。
ただ、価値観が違って戦争になってしまった。
向こう(明治政府軍)が錦の御旗を掲げたことで、こちら(幕府軍)が
賊軍になった」と。
ちなみに、徳川宮司は徳川家の末裔で最後の将軍、慶喜は曾祖父に
あたる。
以前も、今の徳川宮司から2代前に、戊辰戦争で「賊軍」とされた
南部藩の藩主の末裔だった、南部利昭氏が宮司を務められたことが
ある。
この機会に、靖国神社との関連で戊辰戦争における「官軍・賊軍」の
捉え方、更に靖国神社に祀られるご祭神(さいじん)の条件について
、改めて整理しておこう。
まず、戊辰戦争における「官軍・賊軍」の整理から。
参考とすべき先学の発言を紹介する。
「京都側の軍を、官軍と称するには、何等苦情は無い。
京都側は日本政府を代表して立つ軍である。
やがては錦旗を翻(ひるが)へし、総督宮を奉じて出掛くる軍である。
但(た)だ之(これ)と対抗する…一切の対抗者を、賊軍と称するは
当らない。…(薩摩藩の)大久保一蔵(利通)さへも、開戦の当初は、
東兵と称した。されば之を東軍と称するが、穏当の名称であらう。
…彼等の一人たりとも、皇室に対して、敵対し、若(も)しくは
反抗した者もなければ、敵対若しくは反抗せんとする者もなかつた」
(徳富猪一郎〔蘇峰〕
『近世日本国民史「明治天皇御宇史」第6冊、官軍東軍交戦篇』
通算67冊、昭和16年刊)
「官軍は固(もと)より錦旗を翻し、維新政府の命令下に行動したる
者なれば、之を官軍と称するも、何等差支(さしつかえ)はあるまい。
然(しか)もその反対者を賊軍と称するは、決して公正の見ではなく、
平允(へいいん、公平で適切)の見でもない。彼等は決して天皇陛下に
抗敵したるものではない。
只(た)だ薩(摩)、長(州)に抗したるのみだ。
…東北諸藩の所謂(いわゆ)る賊軍と、錦旗を翻し、来討したる
それと、何(いず)れが尊皇心が真純にして、何れが濃厚なるやを
比較せば、其(そ)の真相を判ずるに於(おい)て、恐らくは容易に
判断は出来まい」
(同前、奥羽和戦篇、通算71冊、昭和18年刊)
(続く)