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笹幸恵
2016.6.5 16:25

根っこの視点

私にとって「言論の自由」は、

非常に漠然としていました。

たとえば自分で書いた文章に、

編集部から「差別用語だ」と直しが入る。

出版社の自主規制なのか、私の知識不足なのか

わかりませんが、いずれにしても

何かを書いていたら必ずそういうことに

出くわします。

「これのどこが差別用語なの???」と

思いながら、しぶしぶ編集部の直しに従う。

細かい文言の修正。

これを、
表現の自由が侵害された!
言論の自由が侵害された!

とまでなかなか言えません。

 

「言論の自由」と聞いて私が思い浮ぶのは、

正直こんなところでした。

規制するかされるか、という観点だけ。

 

でも今日の道場で、「根っこの視点」を

学びました。

日本には言論の自由がある。

その権利を行使するとき、

根っこにあるのは「私」か「公」か。

 

そもそもおおかたの日本人にとって、

言論の自由は生まれたときからあって、

あるのが当たり前で、空気みたいなもので、

「今から権利を行使するぞ」などとは考えません。

だからこそ「私」から発した単なるエゴでさえ、

尊重されて然るべきだと当然のように思い、

あるいは「公」だとはき違えて声高に叫び、

はたまた他を糾弾する大義名分にまでしてしまう。

自分だけは立派だ、自分だけは正義だと

思っている(思いたい)がために、

相手の立場を思いやることすらせず、

これが権利とばかりに、他者への攻撃を開始する。

 

人間、生きていれば汚いところも悪いところも、

理屈じゃ割切れないことも、いろいろあるよ。

そういうことに思いを馳せるプロセスは一切すっ飛ばし、

手っ取り早い攻撃対象を見つけては憂さ晴らし。

まるで自分だけは潔癖であるかのように。

 

「言論の自由」という権利を、

エゴから発してばかりいると、

ときに権力の介入を招く。

自分で自分の首を絞めていることに気付かない。

のみならず、権力の介入を喜び、介入させようと

自ら積極的に動く人もいる。

それがいかに恐ろしいことであるか、

その権力が「自分にとって」都合がいい限り、

きっと気づかないのだろう。

言論の自由とは、何にもとらわれずに思考することの自由、
と言えるのかもしれません。

 

振り返れば、あっという間に

道場の時間が終わっていました。

自分の頭がぐるぐる回っていて、

質疑応答の時間を取ることさえ

すっかり忘れていました。

よりにもよって小林先生に指摘される始末。

 

挙手してくださっていた方、

ごめんなさい。

 

笹幸恵

昭和49年、神奈川県生まれ。ジャーナリスト。大妻女子大学短期大学部卒業後、出版社の編集記者を経て、平成13年にフリーとなる。国内外の戦争遺跡巡りや、戦場となった地への慰霊巡拝などを続け、大東亜戦争をテーマにした記事や書籍を発表。現在は、戦友会である「全国ソロモン会」常任理事を務める。戦争経験者の講演会を中心とする近現代史研究会(PandA会)主宰。大妻女子大学非常勤講師。國學院大學大学院文学研究科博士前期課程修了(歴史学修士)。著書に『女ひとり玉砕の島を行く』(文藝春秋)、『「白紙召集」で散る-軍属たちのガダルカナル戦記』(新潮社)、『「日本男児」という生き方』(草思社)、『沖縄戦 二十四歳の大隊長』(学研パブリッシング)など。

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