ゴー宣DOJO

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トッキー
2016.2.11 01:48その他ニュース

知ることと信じること、疑うこと

昨日の当ブログ
「メディアリテラシー能力劣化の時代」
を読んで、

「リテラシーはどのように
身につければいいかよくわからない」
いう門弟からの質問がありました。

よしりん先生の新戦争論に
「人は信じたい情報しか信じない」とあったが、
「知ることと信じることは同一なのではないか?」
もしかすると自分自身、よしりん先生の本を
「信じたい情報」として読んでいるではないか?
という疑念を持ったということですが、
それに対して別の門弟が回答を寄せているので、
その中からご紹介します。


門弟の意見で、
「ゴー宣すら、信じたい情報として
信じてしまっているのではないか?」
というような投稿(質問)があったので、
私の考えを述べます。
学生の頃とかに、私も頭がぐるぐるして
しまったことがあるので、参考にしてください。

結論から言うと、その様な心理は虚無であり、
感情の基点を失っている状態です。
以下、理由等を述べます。

合理の前提には不合理がある
[論理の前提には感情がある]との言があります。
どうしてAと言えるのか、Bだからです。
どうしてBと言えるのか、Cだからです。
どうしてCと言えるのか、Dだから・・・。
どれだけ疑っても、最後には、
理由のない(信じるしかない)Xだから、
に行きつきます。
つまり、信じることは疑うことと
等価的ということです。

気をつけなければならないのは、
その疑い方です。
実証を追い求める態度を
手放さないことが必須です。
疑いっぱなしは、「絶対の真実なんて無い」、
「そういう考えもあるよね」
という心理(虚無)に堕ちます。
これは、価値を拒絶したり相対化するだけに留まり、
(疑い続けても)信じることには永遠に繋がりません。

では、信じる(という感情)は
どこから発生するのでしょうか?
ここで、生まれ育った
地域の差が出てくると思います。

信じることを一種の賭けと捉える人たちも、
もちろん存在します。
ただ、そのような発想をするのは、
絶望的に過酷な土地で生まれ育っている
ことが前提だろうなという気がします。
つまり、一種の虚無ではないでしょうか。
ただ、最後に虚無から飛び出すことは、
何とかかなったというような。

他方、私の場合は、自分の感情の第一歩を
絶望から出発させ、偉大な何かに
賭けざるを得ない立場には立たずに済みました。
恵まれた土地(日本)に生まれ育ち、
その土地の習慣を身につけ、
教育を受けられたからです。
土地の習慣を身につける中で、
(感情の第一歩として)絶望とはほど遠い
感覚を養うことができ、さらに教育を受ける中で、
物事に対し実証を求める態度の
重要性を教えてもらえました。

私にとって信じるとは、賭けてみる必要など無く、
実証的に疑い続けるうちに、
どうしても拭えぬ感情として残ってしまうものです。
また、信じるか否かは「常識に照らして」
行われるのだとの投稿がありましたが、
上述した感覚や態度のことを
例えば「常識」と呼び、それに照らして
信じるか否かなどの判断をしているのだと思います。

門弟はみなそうでしょうが、
ゴー宣シリーズから学んだ「常識」は計り知れません。
次回道場では、国内にいる自分とは
常識がズレている人や、海外にいる
常識が隔絶している人たちを相手に、
今後、どのような付き合いをしていくのが良いか、
考えてみたいと思います
(もちろん、自分の常識が、
常識たり得るかも疑いながら)。

「信じること」の根底に
あるものから考えてみる。
とても参考になる
意見だと思います。

トッキー

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