塚本晋也監督・主演の映画「野火」を観てきました。
敗北が色濃くなった比島戦線で、
中隊からも病院からも見捨てられた一人の兵士、
その姿を描いた大岡昇平の作品が原作です。
平和ボケのぬるま湯に浸かって生きている私にとって、
物語のむごたらしさは十分に衝撃的でした。
でも、でも・・・、です。
兵士は少しも痩せ衰えていないし、
人肉を渇望する葛藤もない。
今ひとつ原作の深みがないのです。
「なぜ大地を血で汚すのか」という
キャッチコピーにいたっては全く意味不明。
反戦? エコ? いつの間に地球規模?
「野火」にそんなメッセージが
こめられてたかな・・・???
決定的に違うのは、自己の内面化、
とでも言えばいいでしょうか。
もし原作を読んでいなければ、
野火が何を意味するのか、
主人公が何を思ったのか、
最後になぜ主人公が銃を手にしたのか、
さっぱりわからないのではないかと思います。
ただ単にむごい地獄絵図を見た、というだけ。
原作では、内面化した自己は、
いつも「誰か」に見られているのです。
それが野火であり、時を経て「自負する左手」となり、
それこそが食べたいと思った人肉を
食べるのを延期した理由でもあります。
私が「私」を見ている。
その私とは何か。
それが「野火」の主題ではないかと思います。
その人間の内面をえぐり出すのに
戦場という「場」があったのであって、
むごたらしさは副次的な要素です。
したがって、むごたらしさを描いただけでは
「野火」を描いたことにはならないでしょう。
戦後の醒めきった視点もありません。
だからなぜ彼が戦後になって、食事の前で
「儀式」をするのかも映画では今ひとつ。
ただ不気味さだけが後味として残ります。
言葉をどれほど連ねても、
パッと見せられる映像に
かなわないと思うときがあります。
でも映像より、紡がれた言葉のほうが
雄弁に何かを物語ることもあります。
名作といわれる作品の映画化が難しいのは、
それが理由かもしれません。
百見は一読にしかず、です。