ゴー宣DOJO

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切通理作
2015.4.8 03:31

「空気」だけを作りたがる人たち


アイヌ民族肯定派とおぼしき人間が、私を名指しでさまざまなツイートをしてきているので、ここに話をまとめたいと思います。

 

まず、現在、さまざまな人間によって私の発言ということでRTされている、以下の文面があります。

 

<「アイヌ問題に関して自分はあまり詳しくないが、友人の小林よしのりさんがアイヌ差別を否定する発言をして、それが批判されている。批判相手の香山リカさんの『語り口』は危ういものに見えるので、自分は小林さんに与する」>

そして引用者は<これは「差別の再生産」以外の何物でもないのでは?>と付言しています。

 

しかし、この要約は極めて不正確です。

まず小林よしのりさんと私はゴー宣道場の師範としての緊張感ある間柄であり、プライベートな友人と呼べるような馴れ馴れしい関係ではありません。

 

仮に友人であったとしてもその発言への評価は私個人の判断によるものであり、人間関係上の帰属意識からではありません。

 

そして小林さんは「アイヌ差別を否定する発言」などしていない。香山リカ氏がそこを批判しているというのも不正確。

 

私は「創」の対談およびネット版SPA!の応酬での小林よしのりさんと香山リカさんの言っている事を読んだ上で、小林さんの言う事に現時点では説得力を感じます。

 

ただし、僕は両者どちらの意見に対しても、逆らえないから黙るのではなく、納得するなら心から納得したいと表明しています。納得すれば今の考えを、どの部分と言わず、変えてもかまわない。

 

黙らせるのではなく、議論を通して説得にかかるのなら、応酬は不毛ではないでしょう。けれど一方的に「ネトウヨ」「残念な人」と決めつけたり、話す前からブロック宣言のツイートしている人もいて、一体なんなのかなって思います。

 

私が言ってきた事を以下にまとめます。

香山氏が「民族は作られたもの」だという定義がアイヌ問題に関する最近の主流の見方であると言うのなら、主流であるとするその判断基準を、自身の文章や意見陳述の中自体で示すべきであるという事がひとつ。

 

その上で、私個人は「国家は作られたもの」というところまではわかるけれど「民族は作られたもの」というのは意外で、しかも、それが最近の考え方の主流であるというのがもし本当なのだとしたら、それはもう、言葉の概念がいつの間にかすり替わっているように思えてならず、どこからどうそういう文脈になったのかを知りたく思う。

 

香山リカさんは以下のように書いています。

<まったくアイヌ文化とは無縁な生活を送っていたとしても、父祖の戸籍に記された「旧土人」、そのアイヌ語の名前や写真などで「自分には和人とは異なる歴史が流れているのだ」ということを認識する機会はいくらでもあるでしょう。そして、そのこととどう折り合いをつけ、何者として生きていくか、自分で決めなければならないのです。それは、自分の民族は何か、自分は誰かをまったく考えずにすむ、私たち日本のマジョリティとはまったく違う出発点になるでしょう。
 また、本人が「アイヌ民族ということは考えずに生きたい」と決めようとしても、外見的特徴や先代の活動などでアイヌとして生きざるを得ないケースもあります。そうしたバックグランドを持つ人が、たとえアイヌ語を学習せず、アイヌ文化を継承していない場合でも「私はアイヌ民族」と主張することは、あくまでその人の自由であるべきです。>

http://nikkan-spa.jp/828521

 

 これを読むと、現在の民族の定義は、ある民族だという事で異質であると差別された人が、それに抗して逆に寄りどころにして民族的アイデンティティを強化するのか、異質であるという事を出来るだけ考えずに生きたいと思うのか、そのどちらを選ぶのかという選択の問題であるということなのだろうかと思う。

 

人間にそういう気持ちの振幅があるのはわかる。しかし、そういう気持ちの問題を、客観的な民族の基準の認定にしてしまうと、差別を固定化することになるのではという疑問がある。

 

砂澤陣さんはゴー宣道場のアイヌ問題の時ゲストに来られ「僕は日本国のフルメンバーだと思っています」と自らおっしゃった。僕にはそれが強烈な印象に残っている。差別の超克は、現実問題としては国家という近代の枠組が無視できないのではないかと今の僕は考えている。

現在、香山さんは、砂澤さんと対談したらどうかという小林さんの提案を拒絶している。

 香山さんは一度小林さんとは対話したし、その文脈の枠組みは小林よしのりさんでも言えるかもしれない。

けれど砂澤さんがアイヌ系日本人として、そのような思いを持つプロセスを、アイヌ問題に関心があり学んでいる香山さんと語る中で聞ける機会もまた重要なのではないかと、楽しみにしているのだが・・・

 

日本人という国家のフルメンバーとして、それぞれに流れる系譜を尊重していくことが、差別の克服につながるのではないだろうか。

 

以上が私の論点だ。これがヘイトなのだろうか? ネトウヨなのだろうか? 

否、ヘイトにつながる事を説得力ある形で展開する議論があるなら、認めてもいい。しかし、単なる決めつけで黙らせるだけなら、納得した事にはならない。知識のない人間だと馬鹿にするのなら、ご自分の豊富な知識から馬鹿にもわかるように書いてほしい。

 

・・・・そう、僕は昨晩遅く、改めて呼びかけました。

 

しかし今朝、また冒頭に挙げたのと同じ、複数のリツイートが上がっています。

<「アイヌ問題に関して自分はあまり詳しくないが、友人の小林よしのりさんがアイヌ差別を否定する発言をして、それが批判されている。批判相手の香山リカさんの『語り口』は危ういものに見えるので、自分は小林さんに与する」これは「差別の再生産」以外の何物でもないのでは?>

小林よしのりは「アイヌ差別を否定」し、その友だちの切通理作は「差別の再生産」をしている……というデマを呪文のように繰り返す人達。ただ「空気」を作りたいだけなのでしょうか。


切通理作

昭和39年、東京都生まれ。和光大学卒業。文化批評、エッセイを主に手がける。
『宮崎駿の<世界>』(ちくま新書)で第24回サントリー学芸賞受賞。著書に『サンタ服を着た女の子ーときめきクリスマス論』(白水社)、『失恋論』(角川学芸出版)、『山田洋次の<世界>』(ちくま新著)、『ポップカルチャー 若者の世紀』(廣済堂出版)、『特撮黙示録』(太田出版)、『ある朝、セカイは死んでいた』(文藝春秋)、『地球はウルトラマンの星』(ソニー・マガジンズ)、『お前がセカイを殺したいなら』(フィルムアート社)、『怪獣使いと少年 ウルトラマンの作家たち』(宝島社)、『本多猪四郎 無冠の巨匠』『怪獣少年の〈復讐〉~70年代怪獣ブームの光と影』(洋泉社)など。

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