立憲主義が、国家権力を憲法で制限する考え方であり、
仕組みであるとすれば、 国家権力である内閣や国会が憲法改正を
提起すること自体、立憲主義を踏みにじる行為なのか?
もしそうであれば、憲法改正はいかにして可能になるのか?
ーという素朴な疑問を抱く向きもあるかも知れない。
しかも日本国憲法第99条には、天皇・摂政・国務大臣・国会議員
・裁判官その他の公務員の憲法「尊重・擁護」義務が、
はっきりと規定されている。
だが、単純な話だ。
憲法には、改正規定(第96条)もちゃんとある。
だから、憲法尊重・擁護義務と憲法改正の発議それ自体は、
全く矛盾しない。
むしろ「憲法の改正を検討し、必要の場合に改正することも
また憲法の尊重・擁護の一方法」(磯崎辰五郎氏)と考えるべきだ。
何故なら事情が変遷し、憲法自体がかえって国家の活動を
妨げているような場合、もし憲法が改正されなければ、
結局、憲法によらずに国家を運営する以外に方法がなくなり、
憲法を無視ないし破毀するという「革命」(=反憲法)的現象を
惹き起こす事態になるからだ。
ならば、内閣ないし国会が“憲法の規定に従って”
憲法改正を発案し、発議することは、立憲主義に何ら抵触しないのは明らか。
逆に、憲法に規定する改正手続きを踏むこと“なく”、
条文そのものには一切、手をつけないで、その条文の趣旨を
著しく逸脱して恣意的に解釈し、
運用すること(憲法の改正規定を“無視”した事実上の改正)こそ、
憲法の尊重・擁護義務に背き、立憲主義を危うくするー
と言わねばならない。
なお、この点に関わって「『立憲主義』を憲法で権力を縛ることと
定義すれば、政府側による憲法改正の主張も解釈変更も理屈として
不可能になる」という奇妙な「理屈」を見かけた
(八木秀次氏『正論』7月号)。
まさか、こんな幼稚な誤解から、懸命に「権力を縛らない」
立憲主義なる珍説を唱えていたのではあるまいな。