「学者同士の論争で、
批判に対して具体的な反論をせずに
『誤読だ』と言い始めたら、
それは『反論の放棄』とみなされ、
遠回しの『ゴメンナサイ』を意味する」
…と、聞いたことがあります。
適菜はよしりん先生にも私にも、
具体的な反論をしないまま、
ただ「捏造だ」「誤読だ」と言い張っています。
適菜がニセモノだということは、
一般読者だって見抜いています。
「小林よしのりライジング」にいただいた
コメントからひとつご紹介しましょう。
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これ、完全に文章力と読解力、
先生のよく言われる「国語力」の問題ですね。
氏はまず
>たしかに脱原発を唱えたときに、
対案を示さないのは無責任以外のなにものでもない。
と書き、
そのあとに
>しかし、対案や解決策を示すことが無責任になるケースもある。
その代表が哲学だ。
と続けており、それが一応は文章のメインテーマになっているのですから、
その前提として書かれた前段は
「対案や解決策を示<さないので>無責任になるケース」
として書かれた、と解釈するのが適切であろうと思います。
その部分について適菜氏はブログのコメントに返信する形で
「脱原発を唱えて対案を示す人もいるし、
対案を示さない無責任な人もいるというだけの話です」
と書いていますが、そういう意図であるのなら
「たしかに<例えば>脱原発を唱えたときに、
対案を示さない<としたら>無責任以外のなにものでもない。」
ぐらいに書かないといけなかったのでは。
でもそれだとそのあとに
>しかし、対案や解決策を示すことが無責任になるケースもある。
その代表が哲学だ。
と続けるのはいかにも不自然になってしまいますね。
これ、テストに出すとしたら
こんな感じでしょうか?
こんな感じでしょうか?
「脱原発を唱えたときに、
対案を示さないのは無責任以外のなにものでもない。
しかし、対案や解決策を示すことが無責任になるケースもある。
その代表が哲学だ。」
この文章から読み取れる筆者の考えは下記のうちどちらか。
A:脱原発を唱えることは、
対案や解決策を示さないので
無責任になるケースのひとつである
B:脱原発を唱えて対案を示す人もいるし、
対案を示さない無責任な人もいる
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これを「B」と答えるようじゃ、
中学受験も通らないでしょうね。
中学受験レベルの国語力もない
自称哲学者、それが適菜収!!