コンビニでブブカタブーという雑誌が『あまちゃん』は駄作だって
いう見出し載せてたんで気になって読みました。
僕は『あまちゃん』は2、3週目ぐらいから見て最終回まで一日も
欠かさず見てしまった人間。普段朝ドラそんなに見ない方なので、
駄作だとかつまらないと思っていたら途中でやめてます。
けれどもその記事は一理あると思った。
それは震災で北三陸の登場人部たちの生活が奪われてしまうと思うからこそ、
そのせつなさ、いとおしさがあのドラマにあったのに、ドラマの中で
震災で死んだレギュラーは誰もいなかったという肩すかし感についての
指摘。
人が死んでそこから立ち直るなんていうドラマが安易に走りがちというのは
わかる。けれども死自体を扱わないのはいかがなものか。そこ押さえてなお
安直な展開から脱していたと言うならクドカン天才説にも同意しよう。でもあれでは
ただ避けただけではないのか・・・・・・。
と、いうようなことが書いてあって、ナルホドと思いました。
それって、先日の道場で小林さんがひっかかりを覚えていた『風立ちぬ』の
ラストの改変・・・・・ヒロイン菜穂子の「(私と一緒に冥府に)来て」が
「生きて」に変わっているという
件とも、どこか通じるのではないでしょうか。
『風立ちぬ』もまた、前半からなにか言いようのないせつなさが抒情的に
予感されていきます。
いまここにあるものはすべて夢で、最初からなかったとでもいうかのような・・・。
しかし結局は、色々あったけど、主人公の生をただただ肯定して、
映画は終わる・・・・・なんだか釈然としないものが残ります。
じゃあのせつなさはなんだったのか。「せつなさを返せ!」と言いたくなります。
それとも、いまの世の中、みんな行き場のない閉そく感を感じていて、
夢みたいな世界の「はかなさ」だけを抒情的に味わい、
それが「はかない」という現実の方は捨象するという、
ものすごく高度なドラマや映画の味わい方をしているのでしょうか。
しかし僕は『あまちゃん』を二度三度見ようとは思わないけれど、
『風立ちぬ』はこれからも何度か見るでしょう。
なぜならあの映画には、そんないまの時代への宮崎駿の違和感が・・・・
そのままの形では出せない何かが、残余としてある気がするからです。
「僕達には時間がないんです」という劇中の堀越二郎の言葉がありましたが、
「若者よ、君たちにもホントは時間がないんだよ」と、
宮崎駿が言っているような気がするのです。