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高森明勅
2012.5.29 14:07

いわゆる「保守主義」へのソボクな疑問

ここのところ、「保守」が流行りらしい。

冷戦時代の我が国では暫く、保守と言えば、直ちに「反動」とセットにされていた。

それは、悪の代名詞であり、愚劣の代名詞であり、時代錯誤の代名詞であり…
とにかく軽蔑し、唾棄し、排除すべきものというのが、ほとんど通念になっていた。

だが、ソ連崩壊と共にマルクス主義が凋落。

すると、それまで時代の表舞台でのさばっていた戦後左翼の欺瞞と偽善が、一気に嫌悪されることになる。

その「反動」で、“保守”の人気が急騰したというのが、
大雑把な経緯らしい。

そうした中で、エドモンド・バークやトクヴィルなどの思想を再評価する動きが出て来たのは、当然だ。

だが、ここに不審なことがある。

それは、いつまで経っても、「保守」の思想を語る時に、ほとんど欧米の思想家の名前しか語られないという事実だ。

「保守的であるとは、見知らぬものよりも慣れ親しんだものを好むこと…
自己の身に相応しく生きていくことであり、
自分自身にも自分の環境にも存在しない一層高度な完璧さを、
追求しようとしないことである」(マイケル・オークショット)という。

ならば、「見知らぬ」欧米の知識人の言説ばかり追いかけて、
「自分自身にも自分の環境にも存在しない一層高度な完璧さ」を求めるのは、
到底「保守的」な態度とは言えまい。

何故、北畠親房や本居宣長や吉田松陰や福沢諭吉…は語られないのか。

それらの人物は語るに値しないのだろうか。

それとも、端から眼中にないのか。

そこに私は、いかがわしさを感じざるを得ない。

近年、流行の「保守主義」も、これまで知識人やその亜流達が、その時々の流行り廃りに合わせて、
身につけたり、脱ぎ捨てたりしてきた知的アクセサリーと何処が違うのか、と。

例えば、バークの「時効」の考え方を使って、伝統尊重を唱えるのは、結構だ。

しかし、肝心の伝統そのものの中身を何も知らなかったとしたら。

これほど滑稽なことはあるまい。

或いは、さらに伝統そのものの中身に一切、関心がなかったとしたら。

これほど欺瞞的なことはあるまい。

伝統の何たるかを知らず、関心すら持たない人間が、伝統「死守」を叫ぶという不思議な光景すら、今や普通に見られる。

その場合、それは保守のたしなみとは無縁な、
エセ伝統「原理」主義に陥っていると言うべきだろう。

別に呼び名は「保守」でも何でもよい。

外来思想を無下に排斥するつもりもない。

だが、それらを咀嚼した上で、
日本人の歴史と暮らしの中から立ち上がって来る思想だけが、
本物ではないのか。
高森明勅

昭和32年岡山県生まれ。神道学者、皇室研究者。國學院大學文学部卒。同大学院博士課程単位取得。拓殖大学客員教授、防衛省統合幕僚学校「歴史観・国家観」講座担当、などを歴任。
「皇室典範に関する有識者会議」においてヒアリングに応じる。
現在、日本文化総合研究所代表、神道宗教学会理事、國學院大學講師、靖国神社崇敬奉賛会顧問など。
ミス日本コンテストのファイナリスト達に日本の歴史や文化についてレクチャー。
主な著書。『天皇「生前退位」の真実』(幻冬舎新書)『天皇陛下からわたしたちへのおことば』(双葉社)『謎とき「日本」誕生』(ちくま新書)『はじめて読む「日本の神話」』『天皇と民の大嘗祭』(展転社)など。

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