拙著『歴史で読み解く女性天皇』に対し早速、ネットの片隅に男系派からの批判が出ているようだ。
ようだ、というのは、人づてに聞いた話だからだ。
聞くところでは、それらの批判は、既にネット上で反論され、論破されているとか。
私の知らないところで、そんなことが起こっているとは。
何だか不思議な気分になる。
しかし、批判者もわざわざ拙著を購入し、読了した上で、私見を批判するために、
貴重な人生の少なからぬ時間を費やしてくれているのだから、有難い
(中には、読みもしないで批判している不届き者がいるかも)。
それに反論を買って出てくれている人は、私の立場を理解し、支援してくれているのだから、更に有難い。
但し私自身は、そうした議論に参加するつもりはない。
理由は簡単だ。
時間が勿体ない。
まず、そうした私見への批判をネット上で探し回る時間が、惜しい。
また、以前そうした批判を人に調べてもらったら、取るに足らないものが多かった。
その点でも、時間の無駄はしたくない。
もっとやるべきことは、山積している(爪を切るとか、靴を磨くとか…って言うのは冗談だけど)。
今回、教えてもらったネット上の男系派の議論は、思った以上に水準が低いようだ。
こんな意見があるらしい。
旧宮家系国民男子の「誰」が皇籍取得の意志を持っているのか?
という問いに答えられなくて、女性宮家を設けても、「誰」が入り婿になってくれるか分からないではないか、
などと喚いているとか。
これは、特に低レベルの議論なんだろう。
案の定、笑いものになっているそうだ。
女性宮家の入り婿というのは、旧宮家系の男子が皇籍を取得した上で、誰が結婚相手になるのか、ということに対応する話。
それなのに、その手前の、誰が皇籍を取得するのかという問題(女性宮家の場合、既に内親王方がいらっしゃる)と、
故意にか自覚しないでか(恐らく自覚しないでだろう)、混同してしまっている。
やれやれ。
また別に、こんなお粗末な意見もあるとか。
私は、男系限定の論拠になって来たシナ男系主義に由来する「姓」は、既に過去のものになった―として
根拠に明治4年の太政官布告を挙げている。
これに対し、その布告は国民を対象にしたもので、皇室には無関係、と騒いでいるそうな。
「は?」
と思わずのけ反ってしまう。
このことを私に伝えてくれた人も、苦笑していた。
彼曰く、「もともと、皇室には姓がない。だから、姓を制度上、廃止する布告が国民を対象にしたものなのは当たり前。
その国民と女帝が結婚された時に、生まれたお子さまが、国民の間に姓の観念が根強く残っていれば、
国民だった父親の元の姓を男系で受け継ぐように受け取られかねない、というのが問題の焦点。
なので、国民を対象とした布告だからこそ意味があるわけでしょう」と。
男系派はやはり、どんどん自爆してくれているようだ。
批判すればするほど、逆に男系派のデタラメぶりが暴露されてしまう。
ネット上の批判を探したり、応対している暇があれば、新海誠のDVDでも見ていた方が、よほど有意義だ。
私の議論が目障りだと感じる男系派がいたら、私を沈黙させるのは至って容易だ、と伝えたい。
男系限定で末永く、皇位が安定的に継承され、皇室が存続できる妥当かつ実現可能な具体策を示す。
それだけでいい。
それが出来ないのなら、あれこれあげつらっても、それは「沈黙」に等しい。
でも、それが出来ないからこそ、あれこれ子供騙しな言い分を、飽きもせずに並べ立てているのかな。
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