ゴー宣DOJO

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切通理作
2012.1.29 04:31

政治家と僕たちの関係

ゴー宣道場の第22回『国家と故郷とTPP』の応募締め切りの2月1日(水)が近づいています。

まだ間に合いますよ!

応募要項はこちら↓

 https://www.gosen-dojo.com/index.php?key=bbizgrnz2-24#_24

 

今度のテーマは「国家と故郷とTPP」。開催は2月12日(日)午後1時から。

ゲストとして、ゴー宣道場の「期待する政治家」第1位である自民党の稲田朋美議員と、民主党の鷲尾英一郎議員が来られます。

 

 僕は正直、ゴー宣道場の中で政治家の先生と同席するということに、慣れていません。

 

そこで今日は、私たち市井の国民と政治家の関係についてちょっと書いてみようと思います。

 

 先日ラジオを聴くともなく聴いていたら、ある政治家が出演していて、「国民一人ひとりが『もし自分が政治家になったらどうするのか』を考えなければ国民主権などあり得ない」と力説していたのが耳に入ってきました。

 

 いままで、僕はこう考えてきました。

為政者になったつもりで物事を考えるなんて、ゲームをやりながら手前勝手なシミュレーションをしているようで、そんな思考回路に慣れてしまったら、後戻りできなくなり、誇大妄想だったり、関係妄想だったりということにつながるような感じがして、気が引けてしまう・・・・・・と。

 

 たとえば、会ったこともない芸能人を勝手に友達だと思いこんだり、恋人だと信じ込んでストーキングするような内面に近似したものを感じてしまうのです。

 

 身の丈目線を逸脱することの怖さを本能的に感じるのかもしれません。

 

 ゴー宣道場のような場で政治家先生と同席できる機会を得た自分にそのような勘違いの隙が生じ、逸脱的な振る舞いが生じないかどうか、何重にも警戒しなければならない気がして、普段以上に委縮してしまう自分がいます。

 

 しかし、それをつきつめていくと「政治家の内面なんか考えられない」から「いくら悪口を言ってもいい」し、むしろ「彼らは俺たちのうっ憤を聴くために居るのだから、それをぶつけて憂さ晴らしすればいい」という考えになってしまうのではないでしょうか。

 

 そんな考えでは、誰も政治家になる人がいなくなってしまう。

 否、いま現在も、政治家は、相当タフで自己犠牲の精神がある、「公」に尽くす人物でないとなれないでしょう。

 

 「そういう政治家への最低限の尊敬の念を国民の側は持つべきだと思う」と小林よしのりさんがおっしゃっているのを聴いて、たしかにそうだと思いました。

 

 関係妄想的な「なり代わり」は、あくまで「私」の拡大です。それは「私」が「私」の資格のみで、公にモノを言えているんだと思い込んで政治家を指弾する態度と変わらないでしょう。

 

 「政治家の立場に想像力を持とうとする」ことは、それとは違う。

 困難な局面に立った時、責任を負う立場でどのような選択をするのか、その重みを一度は引き受けてみようとすること。

 そうすることで、見えてくる地平というものがあるのかもしれません。

 

 そんなことを考えながら第22回道場に臨みたいと、思っています。

切通理作

昭和39年、東京都生まれ。和光大学卒業。文化批評、エッセイを主に手がける。
『宮崎駿の<世界>』(ちくま新書)で第24回サントリー学芸賞受賞。著書に『サンタ服を着た女の子ーときめきクリスマス論』(白水社)、『失恋論』(角川学芸出版)、『山田洋次の<世界>』(ちくま新著)、『ポップカルチャー 若者の世紀』(廣済堂出版)、『特撮黙示録』(太田出版)、『ある朝、セカイは死んでいた』(文藝春秋)、『地球はウルトラマンの星』(ソニー・マガジンズ)、『お前がセカイを殺したいなら』(フィルムアート社)、『怪獣使いと少年 ウルトラマンの作家たち』(宝島社)、『本多猪四郎 無冠の巨匠』『怪獣少年の〈復讐〉~70年代怪獣ブームの光と影』(洋泉社)など。

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