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切通理作
2011.12.25 05:10

市川森一さん追悼

1210日、享年70歳で脚本家の市川森一さんが亡くなられたと聞いた時、言葉が見つかりませんでした。それ以前に、放心状態でした。

 

2008年には上下巻で800ページ近い大部の小説『蝶々さん』(講談社)を刊行され、自身によって脚本化がなされた宮崎あおい主演のドラマ版も、二週連続で今年の11月に放映されたばかり。まったくご病気だったとは存じ上げませんでした。

 

「今日拝見して、こういう作品が生涯の遺作になれば幸運だなあと思ったりしました」と、完成したドラマ版『蝶々さん』の試写でコメントしていた市川さんですが、まさか本当に遺作となってしまうとは……。

 

市川森一さんがいらっしゃらなければ、僕は書くことを始められなかったかもしれない。大学生の時、僕が同人誌で市川森一特集をやりたいと思い、手紙を出して依頼したらインタビューを快く引き受けて下さいました。僕が生まれて初めて外側に発信したのがこの同人誌です。評論めいたことも初めて書きました。

 

その後編集者としての初仕事が、市川さんの子ども番組を集めた脚本集『夢回路』(柿の葉会)。処女出版が市川森一論含む『怪獣使いと少年?ウルトラマンの作家たち』(宝島社)です。

 

近年も日本放送作家協会理事長としてテレビドラマ史の本を編纂される際、七時代のテレビドラマについての項目を依頼して下さいました(日本放送作家協会編「テレビ作家たちの50年」NHK出版2009)。

今年はキリスト教の雑誌で、教会にて対談させて頂いた記事が載りました(「Ministry」第8号『十字架にかかるウルトラマン』キリスト新聞社2011)。

そしてつい最近、角川書店の「特撮ニュータイプ」誌で、市川さんが恩師と仰ぐ監督の山際永三さんに、市川さんとの仕事のやりとりを改めて伺い、いま掲載号が発売されています。

 

市川さんは「夢」がモチーフの作家でした。バブルの頃、口当たりのいい「夢」ばかりがテレビで語られているとき、夢こそが人を縛り、破滅させるものであり、だからこそ逃れられない……ということをテレビドラマで突き付け続けていた。テレビっ子の私は、そこにこそ「本物を語る作家」を見たのです。

 

そして市川森一さんは、僕が幼児の時は『快獣ブースカ』を書いていて、思春期の入口で『傷だらけの天使』を書き、高校生の時は『淋しいのはお前だけじゃない』を書き……まるでテレビっ子の私の成長に合わせてくれるかのように、シナリオ作家として次々と転身され、僕には「少し大人の世界」を見せてくださいました。

 

『ブースカ』の最終回、ブースカを20年の宇宙旅行に出して子ども達と引き離したのは、遊園地のショーに目を輝かす現実の子どもたちに市川さんが責任を感じたから。『傷だらけの天使』を見て大人でも自由に生きられるんだと思った視聴者には、夢の島に水谷豊が遺棄される様を。『淋しいのはお前だけじゃない』では最後、西田敏行に「いい夢見たな」と言わせました。

 

『ウルトラマンA』の最終回「明日のエースは君だ」では、去りゆくウルトラマンAが、子ども達にこう言葉を残します。

 

「優しさを失わないでくれ。弱い者をいたわり、互いに助け合い、どこの国の人達とも友達になろうとする気持ちを失わないでくれ。たとえその気持ちが、何百回裏切られようと。それが私の最後の願いだ」

 

「どの星」という言い方ではなく「どこの国」という言い方をしていることから、ウルトラマンシリーズは、架空の宇宙人と地球人の物語ではなく、実は現実を相手に物語られていたんだということを明かしています。

 

劇中の子ども達へのメッセージであると同時に、テレビを見ている子ども達へ直に届かせようと、作者自身が考えているのだなと思いました。

 

そしてもう一つのポイントは、この言葉が、人間の時の姿を捨てたウルトラマンAの言葉であるということです。

 

生身の人間は、争いのない世界に生きることは出来ない。いままさに、地球を去っていくウルトラマンだからこそ、天に解き放つように、空に輝くひとつの星となってそれを「憧れ」として示したのです。

 

ずっと「自分は悪意でものを書いており、救いを持たせている部分はテレビの制約でそうなっているだけだ」とおっしゃっていた市川森一さんが、最後に教会で対談した時は、「クリスチャンの自分は一貫して福音をもたらすために書いてきた」と述べました。場所が教会だからだったのかもしれませんが「初めてそういう言葉を聞けた」と思ったのを覚えています。

 

訃報を知った夜、ある脚本家の方と電話でお話を二時間ぐらいしました。「市川さんがいなかったら自分は脚本を書いてなかった」と、おっしゃっていました。そういう方はいっぱいいると思います。

 

新聞記事によると、市川さんは「1027日、急な発熱で入院。検査で左胸にがんが見つかり、そのまま都内の大学病院に転院」とあります。がんが発覚してから二カ月弱で亡くなったことになります。身近な人たちにとっても、あまりに急であったことでしょう。

 

そして1220日、市川さんのお通夜に行って参りました。

正直足が重かったのは、十日経っても、亡くなったのをまだ認められない気持ちがあったからです。

弔辞の言葉を述べられた大石静さんが「最後まで現役なのはすべての脚本家の夢」とおっしゃられたのを聞いた時、自分にとっての断ち切られた思いはその「現役感」ゆえなのかもしれないと思い至りました。

 

そう考えたのは、市川さん自身が、病気を知ってから、死を肯定的に受け止めていたことを知ったからです。

 

そんな市川さんの旅立ちをご家族は受け止められておられました。

喪主の挨拶で奥さまは「涙を見せず、出来れば微笑んで」と市川さんに言われたとおっしゃっていました。最後の日は自宅で、ご家族に見守られながら、苦しみも見せず明るく旅出れていかれたと……「美しい死でした」という奥さまの言葉は、断ち切られた思だった私たち参列者の胸にもしっかり届きました。

 

『万葉の娘たち』『黄金の日日』で市川さんと仕事をした名取裕子さんがお別れの挨拶で、市川さんと行った紀行番組に触れた時、僕はその番組を見ていた事を思い出しました。

市川さんはジプシー男性に「埋葬はどうするのですか」と投げかけました。「埋葬はしない、我々は仲間とともに旅をする」と男性は答えていたのを思い出します。

 

献花の時間に入ると、まず市川さんの代表作『淋しいのはお前だけじゃない』の、西田敏行さんによる主題歌が流れ始めました。その後『傷だらけの天使』や大河ドラマなど数々の市川さんが手掛けられたドラマの主題曲が流れ、デビュー作『快獣ブースカ』の主題歌が流れ始めた時は、思わず込み上げるものがありました。その時、ちょうど僕の座っていた席の隣には脚本家の上原正三さんがいらっしゃったのです。

 

上原さんは市川森一さんを『ブースカ』でデビューさせた人でもあります。献花の時間は当然長いわけですから、ちょうど『ブースカ』の歌が流れている時に上原さんが着席され待たれているのはまさに「タイミング」。そして献花を済ませ外で円谷プロゆかりの方々と合流した時『ウルトラセブン』の主題歌が流れ始めたのです。

 

市川森一さん自身、出会いの導きを信じていた方でした。昨年教会で「キリスト教とウルトラマン」についてお話を伺った時のことを、エッセイ「導かれて」に書かれています。http://yaplog.jp/shinkichi1109/archive/917「この日ほど、見えない御手を感じたことはありませんでした」と。

 

この対談の場となった麻布南部坂教会で『帰ってきたウルトラマン』の「悪魔と天使の間に」で組んだ真船禎監督と再会した市川森一さんは、しばらく途絶えていた教会通いを最晩年に再開されたのです。

 

お通夜の際に渡された『追悼 市川森一』の最後に記された言葉です。

「ふりかえれば虹。思い浮かぶ顔はみんな笑顔。なんて素敵な人間たちと出会ってきたのだろう。どの顔も、みんな私の人生の宝だ。」(2011年12月5日、美保子夫人に送信した「去りゆく記」冒頭部分より)。

 

市川さんは優しく、つよい人でした。

大学生の時、初めてお会いした市川さんに「幸福な人ってどんな人だと思いますか」という質問を投げかけた時、こう答えて頂いたのを思い出します。

「人を幸福な気持ちにさせることの出来る人が、幸福なんだと思いますね」

切通理作

昭和39年、東京都生まれ。和光大学卒業。文化批評、エッセイを主に手がける。
『宮崎駿の<世界>』(ちくま新書)で第24回サントリー学芸賞受賞。著書に『サンタ服を着た女の子ーときめきクリスマス論』(白水社)、『失恋論』(角川学芸出版)、『山田洋次の<世界>』(ちくま新著)、『ポップカルチャー 若者の世紀』(廣済堂出版)、『特撮黙示録』(太田出版)、『ある朝、セカイは死んでいた』(文藝春秋)、『地球はウルトラマンの星』(ソニー・マガジンズ)、『お前がセカイを殺したいなら』(フィルムアート社)、『怪獣使いと少年 ウルトラマンの作家たち』(宝島社)、『本多猪四郎 無冠の巨匠』『怪獣少年の〈復讐〉~70年代怪獣ブームの光と影』(洋泉社)など。

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