我が国の国名は、古代のある時期に「倭」から「日本」に変わり、それが現在まで維持されて来た。
ということは、我々の国は、端的に言って、古代国家がそのまま発展を遂げて現代に至った、世界でも類例を見ない国と捉える事が出来る。
しかも、倭国と日本国の間に、国家としての断絶は、認められない。
明らかに連続している。
よほど古くから続いて来た国なのだ。
ちなみに、倭国の史料上の初見は、西暦107年(『後漢書』安帝本紀・倭伝)。
今から1900年以上も前だ。
では、倭から日本に国名が変更されたのは、いつか。
倭が、あくまでもシナ中心の国際秩序を反映した国名であるのに対し、日本は、自国の尊厳と主体性を主張しようとした国名だ。
倭から日本への転換は、重大な歴史的意義を担う。
だから、それがいつで、どのような背景を持っていたかを探ることは、我が国の歴史を振り返る上で、大切なテーマだ。
しかし残念ながら、そのことを直接、伝える史料は残っていない。
そこで、関連史料を組み合わせて推測するしかない。
これまで知られていた史料の一つは、『大宝令』(701年)にすでに「日本」の国名が使われていたことを伝える
同令の注釈書『古記』の記事(『令集解』「公式令」詔書式条に引用)。
これによって、『大宝令』段階で「日本」という国名が正式に採用されていたことは確実だ。
一方、『日本書紀』の天武3年(674)の記事に「倭国」と出てくる。
『書紀』の編者は、原史料に「倭」と書いてあった箇所を、編修の時点で全て「日本」の表記で統一しようとしていた。
ここは、たまたま編者が書き換えるのを忘れて、原史料の表記がそのまま残ったーーと考える以外ない。
ならば、この頃はまだ日本は未成立で、倭の国名が使われていたことになる。
よって、日本という国名が成立したのは、674年〜701年の間であることは、ほぼ疑う余地がない。
ここから、直ちに「日本」国名は『大宝令』で成立したという意見も、根強く唱えられて来た。
これに対し、私は以前から『大宝令』より前にさかのぼると考えて来た。
少なくとも、天武天皇の発意によってまとめられた『飛鳥浄御原令』にまではさかのぼると見ていたのだ。
その根拠の一つは、『続日本紀』の大宝令の完成をめぐる記事に「大略、浄御原朝庭(廷)をもちて准正とす」、
つまり、『大宝令』はほぼ『飛鳥浄御原令』を踏襲していた、と書いてあること(大宝元年8月3日条)。
その他、さまざまな状況証拠を突き合わせると、『大宝令』より前にさかのぼると考えるほかなくなってくる。
これまで私は、「天皇号と日本国号の成立年代」(平成4年)、『謎解き「日本」誕生』(同14年)などで
『飛鳥浄御原令』を朝廷の各役所に配った持統3年(689)を重視してきた。
それを今年刊行した『日本の十大天皇』(幻冬舎新書)では、やや修正して、日本への国名の変更は「天武天皇という存在を抜きにしては、
ちょっと想像しにくい」との観点をより強く打ち出して、更に古く天武天皇の時代にまでさかのぼる可能性を想定した。
そこでは「ひょっとすると、このあたりがひとつのメドになるかも」として天武14年(685)に「日本」国名が採用された可能性を考えている。
この推定は、倭の表記のみで日本が全く出て来ない『古事記』の原型が、これまでの研究により、
およそ天武10年(681)〜同13年(684)にまとめられたと考えられることを前提としていた。
ところがこの度、「日本」という国名がもっと早くから成立していたことを窺わせる史料が新たに見出だされた、
との報に接した(『朝日新聞』10月23日付朝刊)。
中国吉林大学古籍研究所の王連竜氏が学術誌『社会科学戦線』7月号に発表した論文(「百済人祢軍墓誌考論」)によると、
中国の西安で見つかった678年の百済人の祢軍なる人物の墓誌に「日本」の国名が確認出来るという。
『朝日新聞』には、同墓誌の拓本の関連部分が論文から転載され、そこには確かに「日本」と見えている。
鈴木靖民氏(國學院大學教授・日本古代史)は、「記された内容や拓本に本物であることを疑う要素は見当たらない」と述べる。
もし鈴木氏の言う通りなら、「日本」国名の成立は当然、678年、つまり天武7年以前にさかのぼることになる。
そうすると、前述のように天武3年にはいまだ倭の国名が存続していたから、「日本」国名の成立年代は、同年以降7年までの間にまで狭められる。
はなはだ興味深い。
私見にとっては、心強い補強材料になり得る。
だが、その信憑性については、なお慎重に吟味すべきかも知れない。
気になる一つは、墓誌の現物が盗掘によって行方不明になっていること。
王氏の論文も、現物によらず、拓本による研究に基づく。
古美術市場に流通していたという拓本の扱いは、事柄の重要性に鑑み、よほど注意を払う必要がある。
拓本中の「日本」を含む前後の文脈も、紹介されている関連部分だけでなく、もっと広く検討しなければならないだろう。
特に、『古事記』の成立過程をめぐる従来の見方と齟齬する点は、見逃せない。
もし墓誌拓本を信用してよければ、『古事記』の原型の成立年代について、改めて考え直す必要が生じる(678年より古くなる)からだ。
序文(上表文)の理解にも影響を及ぼす。
とにかく古代史上、非常に面白い史料が現れたことは確かだ。
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