バブルが弾け、不況と言われるようになって比較的すぐ、ある学者が新聞でこういうことを言っていたのを覚えています。
「市場では安い商品が出回って、生活必需品に苦労しなくなっているから、必ずしも現状を否定的に考える必要はないのではないか」
「そういやそうだな」と当時の僕は思いました。
「100円ショップに行けばたいていのものはあるし、気取った生活さえしなければ、十分生きていけるじゃないか。壊れたら買い直したってたいした値段じゃない。べつに誰も飢えていないんだ」と思ってしまったのです。
でも心のどこかで「<ものは安ければ安いほどいい>というのは本当に正しいのだろうか」という疑問もないわけではありませんでした。もやもやしていましたが、そのもやもやを形にするまでには至りませんでした。
そして、外国人労働者が多く日本に流入するようになった時期、僕は日本人として、なんとなく「やましさ」を感じました。同じ労働しているのに賃金が違うなんて、差別じゃないかと。
でも、「彼らの国と日本では経済状態が違うのだから、その賃金だって十分家族の面倒を見れるんだ」と言われれば、当時学生だった自分の甘っちょろい平等論なんか屁でもないリアリズムがあるのだなあと思わざるを得ませんでした。
でも、いまになって思います。
「あの頃<なんとなくおかしい>と思っていたことは、やはり問題だったのではないか」と。
同じ日本の中で、顔の見える生産者によって商品が作られているというリアリティが失われ、商品は「どこかで誰かが、いつの間にか用意してくれるもの」になってしまった。
他人の労働に対する敬意も、想像力も失ってしまった。
そして外国人労働者の基準に合わせてしまった賃金は、結局は「日本人だってその賃金で働かせばいいじゃないか」という形で、日本人自身に返ってきてしまっている。
日本がグローバリズムに呑みこまれていこうとしている中、小林よしのりさんと有本香さんの『はじめての支那論』を読んで、より日本のことを考えさせられました。
―グローバリズムは、多国籍展開で富裕層どうしがつながろうとする考えで、また企業を守るために内部留保を貯めておく必要があるから、労働者層、中間層に恩恵を与えて大切にするものではない。決して彼らの給料も賃金もあがることはない。どこまでも下がる。
―人口の規模も適正で、日本だけで経済が回り、生きていけるだけのものがあったのに、それをいま、日本は自ら手放そうとしている。
この小林さんの主張は、これまでなんとなくもやもやしていたのに、形になっていなかったことを、一挙に表に出し、集約させてくれました。
第17回ゴー宣道場 『グローバリズムは歴史の必然か?』では、歴史の縦軸とともに、個々の生活感覚から世界が見えてくるような、そんな話し合いも出来ればと思います。
応募ハガキは8月31日必着。まだ間に合いますよ!
みなさんとお会いできるのを楽しみにしています。