戦後の思想界・言論界では反天皇の立場が暫く主流だった。
その主な論拠は、2つ。
その1は、先の大戦は「天皇制ファシズム」によってもたらされた、との思い込み。
つまり、天皇は戦争の原因だった、との見方だ。
これは、平和がほとんど問答無用の絶対的価値としての地位を与えられた戦後の思想界・言論界では、致命的なマイナス。
その2は、天皇という地位は平等の理念に反し、民主主義とも矛盾・対立するとの決め付け。
これも、民主主義を無条件に最高善であるかのように崇める戦後の風潮の中にあって、極めて重大な批判材料たり得た。
しかし、これらに反論するのは、少し落ち着いて吟味すれば、いとも容易いはずだ。
にも拘わらず、長く人々の思考を呪縛して来たのは、事実だ。
これに対し、最近まで少数派だった天皇「擁護」派には、2種類の“目につく”タイプがあった。
1つは、戦前のある時期、つまり「非常時」に、一種ファナティックに天皇の神聖性が強調された「形」を絶対視し、
それを、そのまま現代に再現しようとするタイプ。
今の皇后陛下が皇太子妃となられるに際し、
ヒステリックに反対したのは、こういうタイプだった。
この類型は、大局的に見て、もともとマイナーだったのに、ますます凋落しつつある、と言ってよいだろう(反天皇派が影響力を盛り返したり、皇室の危機が顕在化したりする局面では、一時的に勢力を挽回するかも知れないが)。
もう1つは、ポストモダン的な「擁護」派。天皇の存在感を強烈に押し出す古いやり方ではなく、「空虚な中心」として受け入れよう、みたいなポーズを取る。
近年、教条主義的な反天皇論が影を潜め、この種のソフトなスタイルの天皇「擁護」派が勢いを増しているのではあるまいか。
だが、どれも天皇の本質を捉え損なっているという意味では、等しく「躓いて」いるというほかないだろう(無論、天皇擁護論にはまっとうな議論も僅かながらあった)。
むしろ、天皇について殊更多くの知識を持ち合わせてはいない、ごく普通の国民の方が、直感的には正しく皇室の本質をつかまえているのではないだろうか。
皇后陛下が結婚された時、ミッチーブームという形で、圧倒的多数の国民は熱烈歓迎した。
「平民」の娘を皇太子妃に迎えると皇室の高貴な伝統が地に墜ちてしまう、と異常なまでの拒絶反応を見せていた一握りの“尊皇家”たちと、素直に喜びを表した多くの国民と、一体どちらが正しかったのか、今となっては、余りにも明らかだろう。
しかし、せっかく正しく本質を把握していても、それをきちんと言葉で説明出来るとは限らない。
分かりやすく、広く共感してもらえるように語るのは、更に難しいだろう。
また、自分の皇室観を客観的に見直したり、その正しさを問い直したりするのも、決して簡単ではないはずだ。
私が天皇について語ったり、本を書いたりしているのは、躓きまくっている「知識人」の仲間入りをしたいからでは毛頭ない。
そうではなくて、直感的には本質をほぼ間違いなくつかみ取りつつ、それを言葉に置き換えるのに困難を感じていたり、自分の皇室観に自信を持てないような人たちに、少しでも役に立ちたいからだ。
勿論、素朴に天皇について知りたいという気持ちを抱いている人たちの要望に応える為でもあるが。