ゴー宣DOJO

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切通理作
2011.5.1 02:30

ストイックな花沢健吾さん

今回は、ゴー宣ネット道場でやらせていただいてる動画『せつないかもしれない』の話題です。

小林よしのりさんも「しじみさんの演技は抑えて乾いた表現が見事だった。今泉監督は才能がある。笑いもある」(SAPIO4/20号)とオススメの映画『終わってる』が5月7日よりポレポレ東中野で一週間アンコール上映されることが決定しました。

http://www.mmjp.or.jp/pole2/

動画の第19回では主演しじみさんとともに監督の今泉力哉さんをお迎えしています。

http://www.nicovideo.jp/watch/1298629862

 

そして、『せつないかもしれない』最新の回はついに念願のゲストの方に登場いただきました!

 『アイアムアヒーロー』『ボーイオンザラン』『ルサンチマン』といったヒット漫画で知られる花沢健吾さんにお話を伺った前半部である第23回、昨日からUPです。

 http://www.nicovideo.jp/watch/1304137927 

 

 花沢さんの作品は、等身大の人間がヒーローになっていく過程を描いていますが、人間はそう簡単に成長出来るものなのかどうかという困難から目をそらしません。

「自分のまんまで描いている」という今回のタイトル通り、花沢さんの、作品の中であれ自分を大きく見せない謙虚な態度は、ご本人のたたずまいにも表れています。

 

 突然世界崩壊の渦中に置かれる主人公を描く『アイアムアヒーロー』連載の渦中に東日本大震災を迎えても、「現実の災害の前には漫画はとても太刀打ちできない」とおののく姿をそのままさらす花沢さん。

 

 『ボーイオンザラン』ではボクシングを題材にしようと、ご自身がジムに通われたそうですが、プロとアマのあまりの実力の差に、たとえフィクションの中であれ日本チャンピオンを目指すような内容はとても自分には描けない……と思われたとのこと。

 

 収録を終えて、花沢さんを見送った帰りに、しじみさんがフト「出来ないことを認めるのって、かえってストイックですよね」と言ったので、僕は驚愕しました。

 そして次の瞬間、こう言ってしまいました。

「なんで収録の時、それ言わなかったの!?」

 僕が花沢さんのことを知ったのは、『ボーイオンザラン』が映画化された時、プレスシート用の文章を依頼されたことがきっかけです。

 ゲスト回UP記念に、その時の原稿を以下に、一部編集した上で掲載いたします。

 映画化された作品についての文章ですが、原作に遡って考えています。

 花沢さんの漫画を読んだことない人にも、ご参考までに。

 ●『ボーイズ・オン・ザ・ラン』と「二九歳の青春」

   切通理作(評論家、エッセイスト)

「三十歳成人説」という言葉を聞いたとき、僕はホッとした記憶がある。若者が精神的にも成熟し「大人」になれるのは三十歳でやっとなのだという認識だ。僕が三十歳の時は会社員だったが、実家と職場の往復で、学生時代以上に人間関係が狭まっていた。当時はせめて下宿でもすれば精神的に自立できるのではと考えて、住みたいと思っている場所を一人でブラブラしたりしていたが、口下手な自分は、不動産屋の門を叩く勇気さえなかった。恋愛では二十歳になって、遅い「大学デビュー」をして、かろうじて童貞ではなくなっていたが、会社員になってから五年間女性とは何もなく、焦りが溜まっていた。

 だから僕は、この作品が『ボーイズ・オン・ザ・ラン』というタイトルなのに、主人公が三十近いということを、ごく普通に受け止めることが出来る。

 

自分が二九歳だった十六年前に、こういう映画があったら、どんなに勇気づけられたか知れない。現状を打開できず、悶々としている「社会人」は自分だけじゃなかったんだ!と思えただろう。

 主人公の田西は物語の後半で、ある人物から、自分の人生の薄っぺらさを指摘される。お前は何もしてこなかったじゃないかと。

 この感覚は自分にも身覚えがある。世間から見れば、自分はもう「社会人」だ。でも内実が伴っていない。これからそこを埋めるのには、もうなにもかも遅すぎるのではないか。

 その内実とは、たとえば仕事の上でも人生経験でもまだなんの結果も出せていないという焦りであり、または女性経験の薄さであり、そもそも男性として見られる資格が自分にはないのではないかという心もとなさである。

 一緒にラブホテルにまで入った女の子から、もっと田西さんのことを知ってからにしたいと言われて、一歩引いてしまうのはまあ仕方ないにしても、その後病気のお見舞いに行って二人だけになった時などチャンスなのに踏み込めないのを見て、「バカだなお前。こういうときはまずやっちゃえよ! やってから後悔すればいいじゃないか」と心の中で呼びかけているいまの自分がいる。

 彼はここで、せっかく手にした、好きな女の子の処女喪失に立ち会う機会を逃してしまうことによって、またしても人生に「遅れ」をとってしまう。彼女の処女喪失の相手役は、結果的に別の男が果たすことになる。そうなるまでのプロセスに、彼女との間にヒビが入るハプニング的な出来事が描かれ、田西の悲喜劇をいや増すことになるが、たとえそれがなくても、田西があの一度許してしまった決定的な「遅れ」を彼女との等身大の関係で取り返すことが出来たのかどうか、見ていておよそ心許なかったのは事実だ。

  いま四十代の自分が二十代の恋慕や色欲を振り返ると、自分のことばっかりで、相手の立場になって考えたことがなかったことに気づき、赤面することが多い。風邪を引いたヒロイン・ちはるのお見舞いに訪ねたとき、あわよくばとコンドームを持参した田西が、彼女の風邪よりも生理を気にしているというくだりなど、我が事のように思える。

  「決定的な遅れ」を取り戻すために

 やがて別の男が彼女を傷つけたことを知り、田西はその男に宣戦布告をし、ケンカに勝つため身体を鍛えることになる。だが彼女にとってそれはなんら望ましいものではなかったことがわかる。それでも田西は身体を鍛える。それはなんのためだろうか?

 僕には、あの「決定的な遅れ」を取り戻すためではなかったのかと思えた。なんでもいい、ひとつのことに一生懸命になることのなかった自分が、それを取り返すことが出来たら。たとえ一発でも、相手の身体にパンチを打ち込むことが出来たら……この現実に自分の手を触れることが出来るし、動かすことが出来るという実感が得られるのでないか……。もちろん、好きな女の子にそんな自分の「夢をあきらめない」姿を知っていて欲しいという思いはあるにしても。

 田西の性への衝動から始まったこの映画は、かくして「ボクシングの鍛錬」という予想もしなかった方向に進んでいくことになる。

 その作品が魅力的であるかどうかは、途中で「この話はいったいどこに行くのだろう」と観客を行き惑わせる瞬間があるかどうかにポイントがあると思う。後になって、実は大きな流れの中では立派なプロセス足り得ていたことがわかればいいのだから。

 ここで、それまでは「社会人」の側面しか見せてこなかった、同じ会社にいる中年層の先輩や社長が、一人の「男」としての素顔を田西に見せてくれるあたりの描写は見ていて感動的だ。

 たとえ馬鹿なことに思えても、「男」として同じ時間軸の中に生きている先輩には、彼が何に向かって一生懸命になっているのかが、本能的にわかるのである。

■永遠の「ボーイズ・オン・ザ・ラン」

 ところで僕は、映画版を見た後に花沢健吾による原作を初めて読んだのだが、映画化された五巻まで以降のストーリーにおいて、田西がより「男」の方向に向けて歩みを進めていくのを知って、若干驚いた。そこには世間から評価を受ける方向や、女性と生身の関係を結ぶ方向から逆に行けば行くほど、もはや異形の輝きすら放ち始める<永遠の童貞性>の確立があった。

 今回の映画で覆われた領域では、田西はまだどっちに行くとも知れない要素を残しているように思える。原作の田西はあの後会社を辞めてしまうが、映画の田西には、社長に辞表は出したものの、一会社員に戻って、かつて<全身で現実とぶつかった体験>を、自分の人生の中でなんらかの形で受け止めていく方向もあり得るのではないだろうか。

 映画の田西は、傷や痣や涙で顔がぐしゃぐしゃになりながらも、ラストで彼女に「ホントに好きなもの、ちはるちゃんのことだけだったから」と告げることが出来た。そして、そう言いながらも、彼女を電車のドアの向うに突き飛ばすのは、二九歳にして、彼の中で青春の一幕が終わったというケジメかもしれない。

 その後の彼には、超ギゴチない愛想笑いをしながらも、「波乱万丈」の会社員人生を続け、あの中年の先輩達のような味のある大人になっていってほしい……自分自身が二十代で会社を辞めてしまったくせに、僕はスクリーンの田西にはそう思ったりもするのである。

 しかし一方でこうも思う。やはり田西は決して普通の大人として出来上がったりはしない。彼に見えているのは、行くあてのない衝動を抱えながら走りまくる、一本の道だけなのだ、と。それが「ボーイズ・オン・ザ・ラン」なのであり、大人になった自分の中でも消えずに残っている姿なのだ、と。

切通理作

昭和39年、東京都生まれ。和光大学卒業。文化批評、エッセイを主に手がける。
『宮崎駿の<世界>』(ちくま新書)で第24回サントリー学芸賞受賞。著書に『サンタ服を着た女の子ーときめきクリスマス論』(白水社)、『失恋論』(角川学芸出版)、『山田洋次の<世界>』(ちくま新著)、『ポップカルチャー 若者の世紀』(廣済堂出版)、『特撮黙示録』(太田出版)、『ある朝、セカイは死んでいた』(文藝春秋)、『地球はウルトラマンの星』(ソニー・マガジンズ)、『お前がセカイを殺したいなら』(フィルムアート社)、『怪獣使いと少年 ウルトラマンの作家たち』(宝島社)、『本多猪四郎 無冠の巨匠』『怪獣少年の〈復讐〉~70年代怪獣ブームの光と影』(洋泉社)など。

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