救援が来ずに人々が窮地に立たされているという
現状はとりあえず脱したけれども、
「街そのものが、そのままの状態で、打ち棄てられている」
ゴーストタウン化という新しい事態に
直面している。
いわき市の復旧に携わった
道場参加者の方から
そう教えて頂きました。
人が生命を奪われることに留まらない
社会の「死」。
直接目にして、
空気を感じた人にしか分からない
「異様」さ「悲惨」さ。
・・・・・・報告を受けて戦慄しました。
日々変わる現状について、
全国にいる道場生の方々から
こうして生の声を聞けることに対し、
参加している人間の一人として
ありがたさを感じています。
また
たゆまぬ「思想」も感じました。
報告してくれた方は、こうも書いていたのです。
現地で、被害を受けた人々のために
一丸となって働くことに喜びを感じる。
と同時に、「人の不幸に乗じて充実感を得ている」
のではないかと自省する。
「誰か困っている人の役に立っている」ことの
自己目的化をおそれる、と。
かつて小林よしのりさんが『脱正義論』で書いた
「運動の自己目的化」の陥穽につながる話ですが、
非常時の高揚感に酩酊することなく、
内省が続けられていることに
その人の「思想する人間」としての
持続性を感じます。
小林さんはかつて
『ゴー宣』の第1巻で
「漫画で読む思想書」
と形容しました。
その「思想」とは、
けっして「自意識肥大した都会のインテリたち」
の間だけで読まれる言葉の玩弄物では
ないと改めて気づきました。
ごく普通の人間が
生きる現場を持ちながらも
そこで「自省」を手放さない
ことの大切さ。
「思想」とは「自省」を手放さないことであり、
我々が試されているとしたら、
まさにそこなのだと教えられた気分です。
「神に試されている」という言葉も
内省を促す存在として、「神」という捉え方を
している人の言葉であるなら
素直に受け取れます。
自分が神になり代わって他者に
何かを押し付けたり、
天罰を与えているような気になっている
自我の肥大化に陥った人も非常時には続出しますが、
公論を目指す態度においては、
それも「お試し」なのでしょう。