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切通理作
2011.3.23 23:25

いったい誰が「弱者」なのか

小林よしのりさんが数日前のブログで

「東京でぜいたくに暮らしてきた者が、
その供給源の人々が
恐怖におののく暮らしをしているときに、
安全に決まっている
東京からさっさと逃げ出して、
京都で安穏とこの事態を
やり過ごそうとしている」

そういう人間を
「価値判断において侮蔑すべき」
と書いたことについて、
価値相対主義に陥らない一歩踏み込んだ
発言として共感し、ツイッターで紹介したら、

さっそく
「そうせざるを得ない弱い人間のことを
考えてみたことがあるのか」という
批判が僕個人に対しても含めて
繰り返し問いかけられました。
「弱者を蔑む強者は尊敬出来ない」
というのです。

でもこの批判、前提がおかしくありません?

自由自在に住んでいるところを離れることが
出来る人間というのは、
そこでやってる仕事にも人間関係にも
行動が縛られず、
かつ金銭的余裕もある人間でしょう。

彼らのどこが「弱い」んですか?
むしろ一般の生活人よりも優位に立っている
といえませんか?

そして小林よしのりさんはどうでしょう?
フリーの漫画家で、
全国どこから原稿を入稿しても
食べていける人です。
いや、国外からだって出来るでしょう。

そんな人が、さっさと逃げてしまえばいいと
いう風潮にくみして
「東京都民よサヨウナラ~」とやったら、
どうでしょう。

つまり小林さんは
自分自身はいくらでも出来るその選択
にくみせず、
まったくの「点」ではなく
共同体という「面」に生きている
人々に目を向けているのだと思います。

そしてこれは、
被災した場所そのものの人たちの
今後の選択にも当てはまるんですよ。
地震って、「これでもう起こらない」ってことではないわけですから。

小林さんの言うように、被災地の少なからぬ人々は、
今後リスクをゼロにすることはできないその地域に
戻って再び生活すると思います。

そういった人々の、ひとつの土地に根差す
しかないありようは、
どこにも行ける人より立場的には
弱く見えるかもしれない。

しかし、そこには「いざとなったら
死んでしまうかもしれないけど
それはそれで仕方がない」という
「諦観」をどこかに織り込んで、
お互いが生きるために
出来るだけのことをするという
強さがある。

そこを重要視することは
「弱者を蔑む強者」の態度でしょうか?

少しでも危険性を察知したら
全国どころか世界中を逃げ回れる
金銭的余裕と、誰とも責任を持ち合わない
<パトリなき自由人>がもしいたとしたら、
それはそれで羨むべき人物かもしれない。

しかし、
少なくとも<公論>というものは、
そういった人たち以外で
形成されるべきものだと思います。

切通理作

昭和39年、東京都生まれ。和光大学卒業。文化批評、エッセイを主に手がける。
『宮崎駿の<世界>』(ちくま新書)で第24回サントリー学芸賞受賞。著書に『サンタ服を着た女の子ーときめきクリスマス論』(白水社)、『失恋論』(角川学芸出版)、『山田洋次の<世界>』(ちくま新著)、『ポップカルチャー 若者の世紀』(廣済堂出版)、『特撮黙示録』(太田出版)、『ある朝、セカイは死んでいた』(文藝春秋)、『地球はウルトラマンの星』(ソニー・マガジンズ)、『お前がセカイを殺したいなら』(フィルムアート社)、『怪獣使いと少年 ウルトラマンの作家たち』(宝島社)、『本多猪四郎 無冠の巨匠』『怪獣少年の〈復讐〉~70年代怪獣ブームの光と影』(洋泉社)など。

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